あんたバカァ?


 これは、1995年に放映したTVアニメ、新世紀エヴァンゲリオンに登場するキャラクター、惣流・アスカ・ラングレーの一世を風靡したセリフである。このセリフに悶えたアスカ好きのエヴァファンは少なくなかっただろう。「NHKへようこそ」を代表作とする作家、滝本竜彦も、もっとも印象的なセリフは何かと問われて「それはやはり、あんたバカァ」だったと言うことを告白している。
 とはいえ本筋としては、別にこのセリフは視聴者に向けて吐かれたわけでは全くない。このセリフは、その全てをアスカがシンジに対するものとして使用されている。従ってほんらい問題にすべきはバカ呼ばわりされているシンジについてである。しかしその、必ずしも自分宛てでない言葉に対して感慨を覚えること、それは考察に値すると言えなくもなかろう。それはある種の意味の可読性(誤読性)を表象しているゆえに。
 従って本論はこれより、「バカ」と言う言葉にまつわるシステムを解体していく中で、「バカ」という言葉によって指示されうる対象について考察していくこととする。

 言葉遣いと言うものは時代と共に移り変わる。それは言葉そのものが廃れる―発明されるという二極と、その中間としての、言葉の使われる背景が変わること、言葉の宛がわれる文法が変わること、言葉の指示対象が変わることがある。無くなった言葉に触れることは、今存在しないという差異ゆえに、それに対する思考を巡らせしむるが、その表見をそのままに残す言葉については、恐らく我々はある思い込みを抱いたまま使用してしまうことだろう。無理もない。言葉がいつ変質したかなど、誰も覚えていないのだから。そうして我々は、これまでの意味を捨てることも、新しい意味を否定することも出来ず、言葉を多義的なものと看做していく。
 そのような意味の、主流と傍流への分裂は、端的に言って誤読の結果である。例えば我々が「萌え」について語るとき、それがある種<新しい>言葉であることについては疑いを容れないが、それ故の「世間」にとっての意味の混濁――グラビア誌が豊満な肉体を晒す官能的な女性グラドルをして「萌えギャル」などとのたまうときの違和感のような――は逃れ得ない。
 そもそも、成り立ちから言葉が多義的であるということは考えられない。ある人にとってAと言う記号が1を表しているのにも関わらず、別の人にとってAがみかんを表しているのだとすれば、この二者間にコミュニケーションが成立しているとは言えない。言葉が生き残るということは、即ち使用され流通することであるのだから、最低限コミュニケーションの成立は必要条件である。
 この論理を援用すれば、語義の正統性は、即ちどれだけの多数説となりうるか、ということにのみ掛かっていると言える。従って先述した「萌え」の意味も、今後如何によって意味がどれだけ変節するかは知れたものではない。

 とすれば、端的にこう言うことが可能であるだろう。即ち、意味は存在しない。

 もちろんこの言い方は正確でなくて、万全を期せばそれは、言葉の中に意味が存在しないということである。言葉という入れ物があって、あたかもその中に何か意味があるかのごとく我々の概ねは言葉と意味の関係を想像するだろうが、しかしそれは虚飾に過ぎない。意味は、端的に外部から規定される。それは時代状況及びコミュニケーションの構成要素たる人間の影響はもとより、もっと具体的に、一文中の、その単語"以外"の言葉の連なりによって形成されてると言ってよい。
 しかしこれでは、抽出するある一つの単語"以外"の語の意味なるものを無条件に肯定することになってしまわないだろうか。それではこれまで言ってきた論理に齟齬を来たす。しかしそうはならない。なぜならば、言葉にとって最初の意味たるもの、意味ならざる「意味」は、まさしく名前であるからだ。言葉の始まりに意味は無く、意味を生成するべき体系は、即ち名前の組み合わせによって立ち現れてきた。
 ここにおいて名前とは、単一の対象を文字通り名指すことを示している。従って我々は、名前を持ったものについて語るとき、その名前以外の言い方を用いるならば、必ず名前より精確さを劣化させることとなる。A君のことをAと呼ばずに甥と呼ぶこと、歩くことを歩くと呼ばずに足を一歩ずつ互い違いに前に出すと言うこと、どれもこれもが何か焦点を欠いた物言いに聞こえないだろうか。A君は一人しかいないが甥は複数いる可能性があり、足を互い違いに一歩ずつ出すというのは何も歩くことでなくて、ダンスのステップとか儀礼の方法の説明かもしれぬのだ。
 大体にして、同じものを名指すのに異なった呼称は要らない。同じものでありながら異なった呼ばれ方が存在するとき、それは即ち、呼称者たちはそれぞれ見ているものが違うということになるだろう。
 それはそもそも物質が多元的な存在であることによる。例えば小泉純一郎は現日本国首相であるが、同様に一日本人であり、また慶応大学の卒業生であり、家庭に戻れば一人の弟であり、と様々な属性を持つ。現日本国首相が一人しか存在できないから今回はそれのみ例外となるが、いずれ、ある人を指示するとなったとき、その人を過不足なく示す方法は、結局のところ名前を呼ぶしかないのだ。

 このような名前が相応しい形で構成されて、初めて意味の構成単位が満たされる。

 例えば、「私は」とただ言ったのでは、いったい何を意味しているのか分からない。これが上司が「誰か伝令に行ってくれないか」と問うたとき「私が」と言うのであれば、「私が(行きます)」と言うことだと意味を確定できる。また、後ろから暴漢が忍び足で接近するのを見た対面の友人が私に向かって「逃げろ!」と言えば、これも当然意味をなす。
 これらの場合、主述の関係を確定させることが即ち意味の発生となる。しかしこれに漏れる言葉の用例が存在する。何か。それは固有名のことである。
 固有名は特権的な存在である。これはいつ如何なる時空においても常に同じものを指し示す。それは古くはユダヤ教の唯一神の名ヤハウェのようなものであるし、もっと卑近なことを言えば、我々の名前もそうである。(名前はある人を特定するという機能上弁別をする必要があるから、同姓同名の人がいる場合は出身地や住所を付記したりする方法がある。)固有名と名前の違いは、例えば「歩く」は英語では「run」と呼ぶような、狭義の言語体系下では呼び名の交換が行われるところである。しかしもちろん固有名は体系間においてもその形と意味をそのままにして伝達される。

 このような名前は、果たして意味と言えるのか。

 率直に言えば、意味とは代替可能なものである。記号が形式上の要請に従って意味を担う以上、固有名のようにそれだけの領域で閉じられてはならない。固有名は単体では意味を生成できないのであって、体系の中に組み込まれて初めて意味を産出するようになる。
 ところがもう一つ注目すべきことがある。それは、固有名が、非固有名化するという事象の存在についてである。例えば、有り金が尽きて一週間何も食べていないところに偶然通りかかった友人が飯を奢ってくれるとなり、「君はキリストだ!」などと言って感嘆の念を表したとしよう。イエス=キリストは歴史上に燦然と輝く固有名の金字塔のようなものだが、ここで友人がイエスの生まれ変わりだなどと言うことを言いたいわけでは決してない。ここにおいて友人は、キリスト教徒におけるイエスのごとき神々しい存在に思われた、ということである。
 このように言葉の内部では、固有名と記号による侵犯のダイナミズムが動いているわけだが、それについての詳しい検証はここでは棚上げし、まずそれらが存在することのみ確認しておこう。

 以上の通り、言葉の性質を考察してきたわけだが、従ってここにおける結論は、言語にとって意味とは、即ち文脈における差異に他ならないということになる。定義が辞書に記載されている現在においては、あたかも言葉そのものが意味を内包しているような誤解を持つが、それは端的に順番を間違えているということを、ここで説明したわけである。

 従ってここにおけるバカの考察もそのように展開される。

 いちばん最初に提示した例に従うと、シンジに対するアスカの「バカ」は、基本的に軽蔑の言葉である。何故かというと、それらが使われる文脈は、総じてシンジがとぼけたことを言ったり、理解の足りないことを言ったり、下らないことを言ったりしたときに使われているからである。
 しかしこの論点には二つのエクスキューズが必要である。まず一つは、例えばシンジが「僕は父さんに褒められたくてエヴァに乗ってるんだ」と、ラーメンを啜りながら言ったとき、アスカはあきれと動揺にある種の、母親が子供に感じるような、「この子ったら……もう」と言うほのかな愛情とともに「バカ」と言うような場合がある。この場合、もはやバカと言う言葉を端的に軽蔑の言葉として捉えることは出来ない。ここでバカと呼ばれる対象は、どこか「愛すべき愚直」とでも言うようなものになっている。
 しかし一方で、番組後半で自我崩壊していく中、もはやアスカからはバカという言葉は発せられなくなってくる。特に、アスカに救いを求めながら拒絶され、さらに自分の痛いところを疲れて狼狽し、リビングで突き飛ばされコーヒーを腹に零して倒れたシンジに対するアスカの言葉はもはや「バカ」ではない、「哀れね」だった。
 とすると、ここから一つの結実を導き出せる。端的に言って、バカという言葉には感情(愛情)が必要なのである。バカと言う言葉にはユーモラスさがある。エリートが凡俗に向かって「彼らは無能ですから」と言うのと「彼らはバカですから」では、後者にある種の柔らかさが見受けられるのも同様である。バカと言う言葉を、本当に過不足なく代替するということはかなり難しい。間違って「屑」などと言ってしまえば軽蔑的な側面が強く押し出されてしまうし、かといって「アホ」と言ってしまうと途端にトレンディードラマだったものがコメディになってしまう。
 滝本のようなエヴァファンは、アスカから「あんたバカァ?」と言われたがっていたようである。言われることに喜びを見出していたと言っていい。進んでバカと呼ばれたがっている。確かにその後「そうだよ、俺はバカだよ」と自虐めいたことを言ってはいるが、果たして、そのようなものをもはや単純に軽蔑のみの言葉と見ることができようか。と言うよりも、むしろそのような言葉を進んで受け取っていくメンタリティ、愛に枯渇したメンタリティこそが、まさしく「バカ」にほかなるまい。
 そう考えてみれば、思えば「バカ」の発話主体となるべきエリート(アスカ)も、元は同じく母親の胎内から生まれてきたのだ。愛を知らぬはずがない。彼ら彼女らは、自ら「バカ」と連呼することによって、むしろ自分を「バカ」と言って欲しいという欲動を象徴していたのである。
 となれば、もはや人間存在そのものが、愛によって規定(誕生)され、(まあレイプのような場合もあるが――しかし産むことは愛だろう)生きる中で愛を模索していくものである以上、ここにおける結論は即ち、「バカ」とは人間のことであった、ということになろう。


 ――何、ありきたりの結論に落ち着いたかもしれぬ。しかし、思えばこれは我々の思考の盲点であるとも言えるのだ。例えば、まさに愛について直裁に、そして愚直なまでに語り続けた漫画、「北斗の拳」、あれなど、ほんの少ししらふで読んだら、爆笑必須のギャグ漫画ではないか! いやさ、つまり我々が、我々のあまりに本質すぎるところについて語ることは、即ち、「バカ」について語る、「バカ」のように語ることは、どこか滑稽なのである。そしてその暑苦しさの中には、どこか懐かしい―――人間味がある。
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