「そうかあ、あんたがあの国崎君かあ」
「わしらもよぉ君のことは聞いてたんや。見かけん変わった男が町に来とるって。ここは小さい町やからなぁ、そういう話は近所からすぐ届くんや。なんし、どんな男やろ思て、いっぺん呑みながらでも話してみたいと思ってたんよ」
「嘘つけ、徳さんは何でもええから理由つけて、ただ呑みたいだけやろうが」
「そうや、知っとるぞ。徳さん、棚の奥に酒瓶隠しとるやろ。いつでも都合の悪い書類を全部燃やしてまうために置いとる燃料や言うて、駐在所のみなでわろとんのやで」
「あほ。酒燃やしてどないすんねん。わしの動力源やぞ。そんなもったいないことしたら、公務執行妨害で逮捕したるからな!」
「どっちが公務を妨害しとんねん!」
 がっはっはっは、とおっさんたちが爆笑している。賑やかで結構なことだが、俺は当然このおっさんたちとは今日会ったばかりだし、取調べなんてものを受けるのも初めてだ。もっとも、このガラの悪いおっさんたちが今、俺に対してやっているこれが、本場の、スタンダードな取調べだとはとても思えないが。机の上の、普通は小さなスタンドライトでも乗っているべき場所には一升瓶が置かれており、制服の警官は俺の正面に座る『徳さん』と呼ばれていた壮年のおっさんだけで、残る二人の男は私服、そして誰もが手にワンカップの瓶を握っている。それは恐らく既に飲み干したただの容器として使われているもので、彼らはカップが空くとすぐに机の一升瓶を取って並々と自酌していた。
 いくら辺鄙な町にある駐在所とはいっても、これは無茶だろう。よほど平和なのだろうか。
「それで国崎君。君は何をしとる人なんや?」
「ああ、俺は」
 言いかけて、少し悩む。俺には、やましいことなど何もないが、本当のこと、つまり人形使いであり、地域を転々と渡り歩きながら見世物をして料金を取る商売し日銭を稼いでいると言ってしまうのは、仮にも警察を前にしてのことだし、無用の不信を買ってしまうのではないかという咄嗟の危機感が湧き起こったからだ。
「あっ! 聞いたことあんぞ。なんや、大道芸をやっとるとか何とか、霧島さんとこの姉ちゃんが言うとったな」
「大道芸とは失礼だな。俺のは種も仕掛けもない、正真正銘のスペクタクルショーなんだ。そんなのと一緒にしてもらっちゃ困る」
「ほお、えらい自信やないか。そんなに言うんやったら、兄ちゃん。ここでいっぺんやってみてや。わしら見とくから」
「金は出るんだろうな? 俺はこれで生計を立ててるんだから、タダでは見せんぞ」
「ふはは、出すでそんなもん。おもろいもんやったらなんぼでもな。ここらは娯楽もあらへん田舎やからな、そういうのに飢えとんや。なんやったら、カツ丼もおごったるぞ」
「ラーメンセットがいいな」
「ラーメン? はは、兄ちゃんおもろいやないか。山ちゃん、出前頼んだってー!」
 俺の抱いた危惧はどうやら杞憂だったようで、おっさんたちは予想以上に適当だった。むしろ今はそれよりも、ラーメンセット&見物料を約束できたことが嬉しかった。その程度のことで喜ぶ卑しい身の上が残念でならないが。
「それで、その芸はどうやってやるんや? 何か用意せなあかんもんあるんか?」
「いや、これがあれば……」
 言いながら腰のポケットを探ってみるが、
「……ない」
「ん? 何がや」
「いつも持ち歩いている人形がない」
「人形?」
 腰ポケットからなくなっていた。
「どっかで落としたんか?」
「多分そうだと思う。参ったな、大切なものなんだ」
「うーん、事件の現場には落ちてなかったと思うけど……山ちゃん、ちょっと回収した品物チェックしたって」
「またわしかいな。人づかい荒いで」
「兄ちゃんの大事なもんらしいから、探したってや」
 ちょうど出前を頼み終わったらしい『山ちゃん』と呼ばれたおっさんは、しかめっ面をして、頭を掻きながら再び出て行った。
「その人形がなかったらでけへんのか?」
「そんなことはないが……」
「じゃあ、とりあえずやってみてや。山ちゃんが探してきてくれるから。なかったら、わしが遺失物として登録しとくよ」
「わかった」
 俺としては現場にあったのかどうかの方が気がかりだったが、今ここで俺が慌てても仕方がないので、それに応じることにした。
「じゃあ何か、人形に代わるもの、何でもいいが、貸してくれ」
「人形な……じゃあ、このぬいぐるみでええか?」
 そう言って『徳さん』というおっさんが差し出したそれは、どこかで見たことのある、警察機関のマスコット人形だった。
「ああ、構わない」
「そらよかった。じゃあ早速やったってくれ」
 おっさんが急かすので、俺はぬいぐるみを机の上に置き、集中して力を込めた。
 ぴょこ。
 ぴょこぴょこ。
「おお?」
 てくてくと机の外周を歩かせてみる。
「おおお?」
 一通り歩き終わったので、おじぎをさせたり手を振らせてみたり飛び上がらせてみたりする。
「おおおお!」
 おっさんたちはこの町では最高の歓声を上げてマスコット人形を見つめている。
 慌てて『山ちゃん』と呼ばれていたおっさんが帰ってきた。
「なんや、もう始めとんかいな! ひどいやないか、徳さん!」
「ええから、こっち来て山ちゃんも見てみいな。こらびっくりするで」
 子供の間では全くウケなかったのに、中年のおっさんたちにウケるとは。若者にこそ需要があると踏んでいた俺は少なからずショックだったが、まぁ仕方ない。
「ところで、あったのか?」
「あん?」
「俺の人形だ」
「ああ……なかったなぁ。人形らしいもんは」
「……そうか」
「そんな大事なもんなんか? 人形買うんやったら商店街まで行きゃあ、おもちゃ屋ぐらいはあるで」
「いや」
 そんなことはできない。あの人形は何にも代えられない、大切なもので、そう、晴子が俺に売りつけたブサイクなナマケモノや、他の誰かが作ったようなものじゃダメなんだ。
 そう言おうとした時だった。
「ばんは〜ッス、出前のお届けにあがりました〜!」
「オッ、兄ちゃんのお待ちかね、ラーメンセットが来たで!」
「よしよし、わしらも飯にしようや。兄ちゃんの芸もごっつおもろかったし、な、人形もすぐ見つかるで!」
 別にみんなで行く必要もないのに、おっさんたちは全員で挙って店屋物を受け取りに行ってしまう。残された俺は一人、観客も居ないのに、ぬいぐるみを動かし続けていた。



無菌室で煙草





 結局あの後、三人の警官らに混じって、何と、俺を交えて麻雀をすることになってしまい、どうせ一晩は拘留されなければならなかったのだから、退屈な事情聴取や薄気味悪い部屋の中で眠ることを思えば、胡散臭いが陽気だったあのおっさんたちに囲まれてゲームでもしていた方が、確かにちょっとはマシだったのかもしれない。が、悪食が続いて、あまり体力がない生活を送っている俺としては、徹夜で牌を握るというのは多少堪える。「あの不思議な芸でイカサマはやらんといてくれよ」などとからかわれたりもしたが、せっかく入った見物料をそのまま返上する羽目にはならず、ある程度の路銀は確保できたのでよかった。駐在所でまさか所持金が増えるとは思ってもみなかったが、総括して、完全なるひどい目に遭った、というわけではないように思う。空を見ると太陽はもうすっかり地平線から顔を出していて、また今日もたまらない暑さに見舞われるのだと思うと、少しげんなりした。
 事の発端は、神尾家を出るという話を観鈴にしたことだった。いつまでも居候の身で厄介になっているのも迷惑だろうと、観鈴に切り出したのがちょうど一日前のことだ。観鈴は引き止めたがり、留まるべき理由を色々と並べ立てたが、俺には行く当てがあるといって振り切ったのだ。
 その当てというのが、この町にあるという無人の駅だった。言ってしまえばこんなもの、当てでも何でもない単なるサバイバル生活の拠点に過ぎないが、雨風が凌げる堅牢な物件には違いなく、日中はどうせ外に出張ることになるのだから大事ないだろうということで、十分だろうと踏んだのだ。
 家を出て、昼間はまず一仕事しようと町に出たがてんで収穫がなく、やむを得ず駅へと向かったのが夕方頃のことだった。そこには遠野とみちるが居たのだが、どうも様子がおかしいと思って近づいてみると、二人は怪しい男と対峙していたのだ。
 遠野とみちるは二人寄り添いながら、駅の外壁に背を向けていた。遠野がみちるの前に立ちはだかり、庇うような体勢をとっていた。そのせいでみちるの様子はよくわからなかった。男の方は、俺の視点からだと背中しか見えなかったが、ニット帽にジャンパー、マフラーと、この猛暑では不自然な厚着をしていた。マフラーは首だけでなく口元にかけて巻かれているようだった。
 俺は男の背中に近づきながら「遠野」と声をかけた。遠野は即座に厳しい眼差しで俺の方に視線を向けた。その振る舞いから、俺は事態が尋常ではないことを確信した。同時に、男が物凄い速度で振り向いた。その手元を見て驚いた。出刃包丁が握られていたのだ。更に、サングラスをかけており、軍手をはめていた。遠野に事情を問うまでもなく、これは危険な人物であり、対処しなければならないと俺は身構えた。
 突然、男が俺に襲い掛かってきたため、戦いはすぐに始まった。相手は光物持ちであり、俺は素手、分が悪いことは明らかだったが、相手の動きが非常に鈍かったため、俺はしばらく揉み合った末に男を取り押さえることができた。厚着のせいなのだろうが、どうしてそんな出で立ちだったのか理由はわからない。戦っている間に遠野が通報してくれたらしく、すぐに警察がやってきて、幸い俺は無傷であり、そのまま遠野たちと共に事情聴取などを経て、今に至るというわけだ。
 さて、そういう経緯なので、俺が当初考えていた、駅に寝泊りする計画は実行できそうにない。無傷だったとはいえ、事件があったので、警察にマークされてしまっただろうからだ。しかも事件の最中なのか、あるいはそれ以前か以後かもわからないが、俺の唯一と言っていい持ち物である人形もどこかに失くしてしまった。これについては俺自身の責任なのでひどく後悔しているが、悔やんでも戻ってくるわけではない。それを探すため、この町にまだ滞在しなければならないという理由ができてしまったのだ。だが駅には行けない。どうすればいいのだろうか。神尾家にもう一度戻る、というのは考えられなかった。出て行くと言い出した意地もあるが、それ以上にやはりあの家に居続けるのはよくないと思うからだ。全員が大歓迎という状態ではないのだ。深く干渉するのはさすがに気が引ける。ではどうするか。いっそ霧島診療所に雇ってもらうか。そういえばあの女医、聖は、俺のことを大道芸人だとか嘯いていたらしいじゃないか。そこのところを厳重注意するためにも、一度顔を出さなくてはならないな。
 思い出した。神尾家から出はしたが、観鈴の登下校を送り迎えすることに関しては別の話だったのだ。それは、元はと言えば、神尾家に泊めてもらう条件として晴子から請け負った仕事だったが、外からも迎えに行くと先日、観鈴に約束したばかりだった。どうしてそんな約束をする気になったのか、自分でもわからないが、一度言ったのだから、少なくともこの町に居る限りは続けてやろうと思う。せいぜい人形が見つかるまでの間だ、そんなに長くはかからないだろう。
 というわけで、駐在所を出たその足で、観鈴を迎えに神尾家に向かった。




「あ、往人さん」
 俺が神尾家に着くと、家の前で観鈴が待っていた。
「往人さんだぞ」
「にはは、ちゃんと来てくれた。よかった」
「ああ。約束だからな」
 観鈴はいつもの学生服で、手には鞄を持って、ニコニコ笑っている。
「往人さん、ちゃんと昨日は眠れたのかな」
「ああ」
「ちゃんとご飯は食べれたのかな」
「ああ」
「ちゃんとお風呂には入れたのかな」
「ああ」
 にじり寄ってにおいを嗅ごうとしてくる観鈴をやめさせる。
「俺は大丈夫だ。それより、お前まだかなり早いんじゃないのか?」
「そんなことないよ」
「いや、だって俺が警察を出たのがまだ明け方だったし、学校が始まるにはまだまだ時間があると思うんだが」
「警察。往人さん、警察に行ってたのかな」
「ん? ああ、いや。聞き間違いだろう」
 まさか「昨日言ってた行き先だが、実は急遽、警察になったんだ」なんて言えないので、思わず滑った言葉を、俺は適当にはぐらかした。
「まあ何だ、立ち止まってないで、学校に向かおう。俺もこれが終わったら、仕事をしないといけないからな」
「あっ、うん。行こ、往人さん」
 俺たちは歩き出した。
「とにかく、飯はちゃんと食えたし、うまくやってるさ。それよりもお前はどうなんだ。晴子は何か言ってたか」
「ううん、お母さんに往人さんのこと言ったけど、何もお話はしなかったよ。遅くに帰ってきて、すぐに寝ちゃったから」
「そうか」
 そこで一旦、話が途切れ、無言のまま、早くも陽炎が見え始めた道の中で歩を進める。
 しばらく経って沈黙を破ったのは観鈴だった。
「ねえ、往人さん」
「何だ」
「やっぱり、おうちに戻っては来れないのかな」
「え?」
「わたしは、往人さんにおうちに居てほしいな」
 観鈴を見る。観鈴にしてはやけに、直接的な言い方だと思ったからだ。観鈴は足元を見ている。
「どうしてだ」
「えっと、やっぱり別々に暮らすより一緒に居た方が、お金もかからないし、お母さんはあんな風だから無理に往人さんからお金を取ろうとしてるけど、でも、お母さんの居ない時にご飯も作ってあげられるし、その方が往人さんもいいと思う」
「ダメだ」
「どうしてなのかな」
「昨日言っただろう。迷惑がかかる」
「迷惑なんかじゃないよ」
「そんなことはない。元々お前たちは二人で暮らしていたんだ。いつまでもそこに割り込んだままというわけにはいかない。第一、晴子に見つからないようにそんなことをするというのは論外だ。さっきも言っただろう。俺は行く先を見つけたんだし、わざわざそんなことをしてまでお前の家で世話になる必要はないんだ」
「でも」
「でもじゃない。大体、どうしてそこまでする必要があるんだ。確かにこれまでのことは助かったが、もう今となっては迷惑なんだ」
「うん」
「うんって、お前、わかってるのか」
「うん」
「とにかく家には戻らない。だがこうやって送り迎えは今まで通りやる。それでいいだろう」
「うん」
 それきり会話は途切れ、また黙々と歩いているうち、やがて学校に着いた。
「じゃあ、終わる頃にまた来る」
「うん。待ってる」
 校門の前で別れ、観鈴は校舎に入っていった。その背中が見えなくなるまで見届けて、俺は学校前にある海際の堤防に腰を下ろした。

 さて、俺はここで具体的に考えなければならないことがある。それはもちろん、人形を見つけ出す方法についてだ。とはいっても一日で見つけ出すことはできないだろうから、宿泊するところも何とかしなければならない。それと飯、金の問題だ。この二つの条件を一度に解消するには、どこか泊り込みで働ける場所を見つけるのが最善の案のように思える。人形劇で稼ごうにも肝心の人形がないし、今までの実績から考えて、この町では食っていけるほどの実入りは期待できない。となると、当てになりそうなところはやはり、霧島診療所だろうか。正直言ってあの女医はこき使いそうだし、バイトを泊める体制があるようには全く思えないが、数少ない顔見知りの一つということもあって、一度掛け合ってみて損はないだろう。もしダメだったとしても、あいつは顔が広そうだから、どこか他のバイト先を紹介してくれるかもしれない。もしかしたら紹介料ぐらい取られるかもしれないが、やむを得ない。今考えてみてわかったが、他に方法が全く思いつかない。この町に来てから非常に狭い範囲でしか行動していなかったから、どこにどういうものがあるのかを把握していないんだ。
 そうと決まれば、時間は貴重だ。早速、動かなくてはならない。
 と思っていると、
「居候ーーーーー!」
 遠くから叫ぶ声が聞こえて来た。
 同時に響く轟音。
 堤防から下りて辺りを見回すと、煙を撒き散らしながらこちらに向かって爆走してくるバイクが目に入った。
「居候! コラ! こんなところにおったんか」
 進行方向に対して車体が横向きになり、その物凄いスピードに急ブレーキをかけながら迫ってくる。そのまま目の前で止まって、荒い息をしながら俺の前に立ったのは、晴子だった。
「どうしたんだ」
「どうしたもこうしたもあるかい。居候、あんた、昨日はどこにおったんや」
「昨日……」
「あんた、昨日でうちの家を出たんやってな。観鈴から聞いたわ」
「ああ」
「昨日どこにおったんか、さっさと答えんかい、コラ!」
 晴子は凄い剣幕で叫んでいる。観鈴によると、俺が出て行ったことについての晴子の反応は素っ気ないものだったということだったが、話が違うのではないか。だが、どうやらこの様子では、昨日、俺が警察に居たことは知っているようだ。別に容疑がかかっていたわけではないのだから、嘘をつく意味はない。
「警察の駐在所に居た」
「吐かしたな。ほんまやってくれたわ」
「どういうことだ?」
「胸に手ぇ当てて考えたらすぐわかることやろ。この人殺しが!」




 俺は今、神尾家の納屋に居る。観鈴を学校まで送った後やってきた晴子によって捕まえられ、ここにぶち込まれてしまったのだ。まだ昼にもならない午前だが、密閉された納屋はサウナのように蒸し暑く、参ってしまう。だがここから出ようにも、外側から南京錠か何かで鍵をかけられてしまった。つまり俺は監禁状態にある。
 晴子から聞いた話によるとこうだ。ついさっき、家で寝ていた晴子のもとに駐在所から電話があったらしい。取調べの時に身元を言わないわけにはいかなかったので仕方なく、神尾家に居たことを話したせいだろう。その通話で、晴子は事件の内容を教えられたそうだ。そしてちょうどその時は、俺が観鈴を学校に送っているはずの時間だったので、慌ててバイクに乗って学校まで飛んできたということだった。
 俺があの男を殺してしまったのは不如意の出来事だというのは当然、警察の方から伝わったはずなのだが、しかし電話口で実際にそんな話を聞かされた状況をイメージしてみればわかるが、俺が殺人を働いたという風に受け取ってしまっても仕方がない。正確には過失致死であり、それも正当防衛であることが、状況証拠と、あと恐らくは遠野かみちるの証言によって認められた。だから晴子の想像している危惧は杞憂に過ぎないのだが、熱くなっている人間に説明しても理解してもらえないと思い、甘んじて、かつてのねぐらだった私設の牢に入ることを俺は受け入れたのだった。
「おい」
 俺がここに入れられてから約一時間ほどが経った頃、戸越しに外から晴子の声がした。
「何か言うことはあるんか」
「ああ」
「なんや」
「あれは仕方がなかったんだ」
「はん、おどれはドラマの見過ぎとちゃうか。思いっきり殺人犯の言い逃れの台詞、そのままやないか」
「見過ぎはそっちの方だ。俺は本当のことを言ってる。勝手にドラマなんかの型に当てはめて、無駄に俺を疑ってるだけなのは、そっちだ」
「…………」
「俺は確かに昨日、この家を出た。挨拶をしなかったのは悪かったと思ってるが」
「そんなんどうでもええわ。あんたがどこに行こうが、元々、赤の他人やねんから勝手にしたらええ」
「だったら何故こんなことをするんだ。俺はこれからやらないといけないことがある。観鈴には言ってないが、今日、泊まる場所も探さないとダメなんだ。こんなところで時間を無駄にするわけにはいかない」
「気安くうちの観鈴の名前を呼ばんといてくれるか」
 くそ、こういう時に相手の姿が見えないのはよくない。今、晴子は俺に対して悪いイメージしか持っていないから、声だけの会話ではどうしても上辺だけの取り繕いに聞こえてしまうんだ。
「何度も言ってるだろう。その件は仕方がなかったし、正当防衛だったんだ」
「さっきから聞いてたら、正当防衛やら、仕方がなかったやら、グチグチと言い訳しかほざきよらん。そんななぁ、罪になるとかいう問題やあらへんわ。殺すつもりやったかどうかなんか、お前以外の誰もわかるかい。大事なんは、人殺したすぐ後にうちの家に来て、観鈴を学校まで連れていったっちゅうことや。ただでさえ得体の知れんかった男が、その上そんなことがあっても、平気であの子と接してたやなんて、考えるだけでも恐ろしいわ」
「ダメだな。俺が何を言っても話にならん。聞く気になってから、来てくれ」
 しばらく沈黙があって、
「とにかく、観鈴が暮らすこの町に、あんたをウロウロさせるわけにはいかへん。うちが納得できる何かが見つかるまで、あんたにはここにおってもらう。誰が許しても、うちが許さん」
 遠ざかっていく足音が聞こえる。晴子は去ってしまったようだ。
 はぁ、なんてこった。第一、張本人の俺がこんなところに居たら、潔白を証明する何かを探しようがないじゃないか。あいつは俺のことを頭から疑ってかかってるから、俺にとって有利な証拠は黙殺するんじゃないのか? 大体、警察の説明を信用していないようでは、ほとんどの情報を握っているのが警察なんだから、どうしようもないだろう。他に事件のことについて知っているのは、遠野とみちるぐらいだ。でも、晴子は遠野とみちるが関与していることについて知っているかどうか怪しいし、あの二人が俺のことについてどう警察から説明を受けたのか、あるいは、二人の目に現場での状況がどう映っていたのかもわからないから、晴子同様、俺のことを疑っているのかもしれん。晴子はどうするつもりなんだ? 地道に聞き込みでもするつもりなのか。でも現場は無人駅、周りに人家はほとんどないし、目撃者も居なかっただろう。現場にはまだ警官が居るのか? でもあいつは警察を信用してない。八方塞がりじゃないか。俺にできることは何もない。
 ああ、俺にできることは何もない。足元を見ると、つい昨日まで使っていた毛布が地面に転がっている。俺に許された空間は、この狭い納屋の中だけなのだ。ならば、せめてこの中だけでも探索をすべきか。周りを見回すと、くたびれたダンボール箱、油臭い布巾、プラスチックの網カゴ、晴子のバイクに関するのであろうアイテムが棚に所狭しと並んでいるのが見える。肝心のバイクは外に出されていて、部屋の中心はぽっかりと空いている。壁は木製で、建造されてからそれなりの年月が経っているのだろう、本気でやれば破壊して外に出られそうなほどガタが来ている。だが、ここで下手に行動して、本当に罪を作るべきではないだろう。器物破損罪。晴子の方だって俺を監禁しているのだから、お互い様なのだが、ああ、すると俺は、壁を破壊してしまっても正当防衛が成立するのではないか。この場合は厳密には防衛という言葉は当てはまらないかもしれないが、いずれにせよ、正当だ。
 いや、それはよくない。俺はこの町で人形を探すまでは滞在しなくてはいけない。そんな状況で、同じ町に住み、深く関わった晴子との間に確執を生むのは、俺の行動に支障を来たしてしまう。今のままでも十分に確執があるかもしれないが、それを決定的なものとしてはならない。晴子の誤解を解くのが正しい選択だと思う。
 とりあえず納屋の中を探索し、外に出た時に使えそうなものを整理した。古いボストンバッグ、ドライバー、ニッパー。後は携帯できそうにないし役立ちそうにはないが、古新聞、塗装スプレーなんかも一応は手の届く範囲に置いた。晴子を説得できたら、貸してくれるように頼もう。




 それから陽が落ちて夜が更けるまでに何度か晴子がやって来たが、特に進展はなかった。一度目の会話と同じような押し問答を繰り返すだけで、晴子は俺の言葉に耳を貸すことはなかった。ならば何のためにここへ立ち寄るのか、そう訊いてもあしらわれ、適当なことを言われるだけで、埒が明かない。俺の無実を、まあ有罪を証明するためにでもいいが、何らかのアクションは起こしているのだろうか。頻りに俺のもとを訪れていることを思えば、外出はしていないのではないか。その問いかけもおざなりに流され、何とも実のない話を積み重ねている。
 そういえば、今日は観鈴を迎えに行けなかった。晴子から請け負った、俺が神尾家に居るために、代償というほどではないが、与えられた仕事。家を出たのに、こうしてまた同じところに舞い戻ることになって、それにも関わらず責務を果たすことができないとは。当初の志が声を上げて泣いてしまうな。観鈴は一人で帰ってきたのだろうか。しばらくは俺を待っていたのだろうか。晴子が迎えに行ったのだろうか。観鈴は俺がここに居ることを知っているだろうか。観鈴はどう思っているだろう。
 腹が鳴った。夜中のラーメンセット以外に何も食っていないのだから当然だ。駐在所を出た時、まさかこんな事態に陥るとは夢にも思わなかった。もし、観鈴を送った後、晴子に捕まらなかったら、俺はどうなっていただろう。ひょっとしたらあっさり人形を見つけて、今日のうちにこの町を去ることができたかもしれない。そこまでうまくいかなくても、いい職を見つけて、しばらくは安泰になるほどの路銀を稼ぐ段取りができていたかもしれない。こういうのを、獲らぬ狸の何某というんだな。ふん、何が獲ら『ぬ』だか。格好つけやがって。咳をしてもホームレス。
 結構、夜も更けたんじゃないか。外の様子はわからないが、日が暮れてからそれなりの時間が経っている。晴子はそれ以来、ここを訪れていない。
 大人しくもう寝た方がいいな。何もすることがない。腹も減ったし。感覚をごまかすために眠る。明日の朝、ちょうど今日の朝に思っていたことが実行できることを祈って。




「往人さん、往人さん」
 起こされた。寝起きが驚くほどいい俺は、すぐに目を開けて、その人が観鈴であることを確認した。
「おは」
「おは」
 気の抜けた挨拶を交わして、俺は辺りを見回した。ここは納屋の中だ。眠る直前のままの状態。ただ入口の戸が開いていて、眩しい光が差し込んでいる。そして俺の枕元には観鈴が、制服姿で座り込んでいる。
「何だ、もう学校か」
「うん。今日は全然早くないよ。往人さん、ねぼすけさん」
 じゃあ昨日はやっぱり早かったんじゃないか。
「へえ。それで、何でこんなところに居るんだ」
「往人さん、わたしを学校まで送ってくれるって約束したよ」
「ああ、そうだったな」
「うん。そろそろ行かないと、遅刻になっちゃう」
「だったら急がないとダメだろ」
「だから、早く立って。学校いこ」
 んん? 何か大事なことを忘れている気がするのだが。何だった? 昨日は、ああ、そうだ、徹夜をしたからすぐ眠れたんだった。なぜ徹夜をしたんだったか。そうだった。駐在所を出て、観鈴を送って、晴子が来て……。
「コラ!」
 考えているうちに大声が響き渡った。狭い納屋の中で、こんな声量で叫ばれるとたまらない。そしてこれは昨日も聞いた台詞だったな。
 そうだったそうだった。俺は昨日、晴子に監禁されたんだった。事件のことも思い出した。あまりにも色んなことがあったので、思い出すのに時間を要してしまった。いくら寝起きはいいといっても、頭が即座にフル回転するわけではない。
「居候、何しとんや!」
 大開きになった戸にスーツ姿の晴子が仁王立ちしている。表情は、逆光のためよく見えないが、まあ見なくてもわかる。さぞや怒りに満ちた形相であることだろう。見えなくてよかった。
「観鈴に近づけんようにここに置いとんのに……何さらしとんねん、おどれは……」
「お母さん、往人さんは悪くないよ。わたしが勝手にここに来たの」
「観鈴。しゃあないからあんたには教えといたる。国崎往人は、事件を起こしたんや。それも最悪の、殺人をやらかしたんや。そのくせ、警察からひょろっと出てきよる。危険人物なんや。近づいたらあかん」
「往人さんはそんなことしないよ」
「したんや! したんやろ、居候。この子の前で正直に言い」
「……そうだったかな」
 相変わらずの論調で思考停止している晴子が疎ましく思え、俺はとぼけるような返答をしていた。
「なんやて」
「昨日からずっとあんたは俺のことを悪役にしたくて仕方がないようだが、何回も言ってるように、それは違う。一晩の間でいよいよ妄想が膨らんだのか? 何だよ、最悪の殺人って。あんた、あの場に居たのか? あんたは昨日、朝一で俺を閉じ込めて、それからかなり熱心に俺のところに来ては、あることないこと無意味に口走っていたが、真実を知るために何か行動したのか? 俺は貴重な一日を潰されてるんだよ。飲まず食わずで、こんなところに監禁されて、ああ、そういえば腹減ったな。すっかり感覚が麻痺してるみたいだ。身体がだるいよ。この家では茶も出ないどころの騒ぎじゃないぞ」
 何だか妙に、ハイになってきてしまった。俺は起き上がり、傍らにしゃがんでいる観鈴の肩に右腕を回した。びくり、と観鈴は身を固くしたが、何も言わない。晴子は納屋の中に身を乗り出す。
「あんた、観鈴に何を――」
「こっちに来る前に、何か食えるもの、ないか? 本当、口を開けば同じことばかり繰り返してすまないが、空腹なんだよ。観鈴、昨日の晩飯は何だった?」
「えっ、往人さん、えっと……」
 急に振られて動揺している観鈴の目を見ながら、左手で、毛布の隣に置いていたドライバーを握る。
「この町はいいところだよ。組合のおばちゃんは、そうだな、この観鈴の頭ぐらいもあるおむすびを、見ず知らずの俺にくれたぜ? 一時、都会にも居たことがあるが、そこじゃあんなことはあり得ない。なあ、俺は確かにあんたの世話になったが、本当なら今頃はここに居ないはずなんだ。俺は家を出たんだ。でも不当にここに拘束してるのは、あんただろ。俺を餓死させたいのか?」
「お願いやから、観鈴には何もせんといて……」
 左手で牽制すると、晴子は一歩引いた。顔が青ざめている。
 俺は続けた。
「しないよ。俺はこれから観鈴を学校まで送らなくちゃならない。元はといえばあんたとの拙い契約だが、今じゃ観鈴との約束なんだ。ただでさえ、昨日は帰りの約束を破ってしまってる。今日はしっかりやらないとな。なあ、俺はいつまで喋ればいい?」
「わ、わかった。今、何か持ってくるから、そのままでおってや。頼むわ」
「居るよ」
 晴子はこちらを向いたままじりじりと後ろに下がり、そのまま家に入っていった。
「行くぞ、観鈴」
「え、え、でも」
「いいから、来い」
 俺は用意していたバッグに、素早く物を詰めて担ぎ、観鈴の手を引きながら神尾家を走り出た。




「往人さん、痛いよ、痛い」
 夢中になって道を走っていると、後ろから観鈴の悲鳴が聞こえた。立ち止まり手を放すと、強く掴んでしまっていたせいだろう、観鈴は顔をしかめて手首を押さえた。
「ひどいよ、往人さん」
「すまん」
 観鈴は今にも泣きそうな顔をしている。
「往人さん。これから、どこに行くの」
「ん……そうだな。学校までお前を送りに行く」
「それから、どうするの」
「やることがあるから、それをやる」
「どうして、お母さんにあんなことを言ったの」
「…………」
 まぁ、そうか。観鈴だって馬鹿じゃない。
「ねえ、どうして」
「あいつが警察に通報しないとも限らないだろ。俺には厄介事に首を突っ込んでいる時間も、あそこでゆっくりしている時間もないんだ。お前も知ってるだろう」
「何を?」
「何って、事のあらましっていうか、昨日おととい、俺の周りであったことだよ。晴子から聞いてるだろう? 今日、納屋に来たってことは、そういうことなんじゃないのか」
「ううん。もしかしたら往人さん居ないかなって、ちょっと覗いてみただけだよ。居たら、うれしいなって」
 なんだそりゃ。晴子は観鈴に何も言ってないのか?
「そしたら往人さんが寝てたから、一緒に学校行こうって思ったの」
「そんなわけないだろ。お前、人の話を全然聞かないな。何度も何度も言ったように、俺はお前の家はもう出たんだ」
「でも、往人さん、居た」
「それはだな、いや確かにそうなんだが、俺は出たんだけど晴子に捕まってあそこに閉じ込められて、ってああ、すげえややこしいな」
 俺は頭を抱えた。
「お母さんに捕まったって、往人さん、何か悪いことしたのかな」
「してない。あいつが勝手に俺が悪いって思い込んでるだけだ」
「そうなんだ」
「見てもいないくせに、あいつはちゃんと警察から話を聞いたのか? 何か警察と関われない事情でも持ってんのか、晴子は」
「そんなの、ないと思うけど……往人さん、わたしにもちゃんと事情を教えてほしいな」
「そうだな……俺はおととい、ある事件に巻き込まれた。遠野とみちるが、変な男に襲われていたわけだ。それを助けようとして、俺はそいつをやっつけたんだが、相手は死んでしまった」
 死んでしまった。相手はナイフを持っていたから、それを奪い取って……ん? ナイフだったか? カッターナイフじゃなかったか? いや、よく思い出そう。最初に見た時、確か男は俺に背を向けていて、この暑いのに、真っ黒なスーツに身を包んでいた。髪は肩にかかるぐらいの黒髪で、テカテカと光る黒い革靴。右手にはビニール袋を提げていた。そして左手にカッターナイフを、いや、何だった……? スタンガンだったか? いや、携帯電話だったか? 脇に真っ黒な車が停まっていなかったか? ん? 俺は警察に何と報告したっけ?
「それで俺は警察に行って、」
 警察に行って、いい加減な態度の警官としょうもない会話をして、ラーメンセットをおごられて、『徳さん』と呼ばれていた警官に簡単な事情聴取を受けて、麻雀をして……。そうだ、人形がないというのがわかったのもそこだった。それで『山ちゃん』と呼ばれていた警官が、現場から見つかった品物をチェックしてくれた。だが現場には人形はなかった。俺は人形を持って、観鈴の家から直接駅に向かったはずだから、道すがら落としてしまったということだろう。それほど広い探索範囲ではないが、誰かが運び去ってしまった可能性もある。
「そこで正直に話したら、正当防衛ってのが認められて、解放されたわけだ。そこから直接、観鈴を迎えに行ったのが昨日の朝だ。覚えてるだろ?」
「うん」
 そうだ。色々とあったが、結局言ってしまえばそういうことだ。
「でも、往人さん、駐在所じゃない方から、わたしの家に来てたよね」
「え?」
「この町の駐在所は、ちょっと町からは外れたところにあるの。往人さんが来た方とはちょうど反対だよ」
 何だその説明は。俺は駐在所から来たって言ってるだろう。場所ぐらい知ってるよ。こう見えて土地勘を掴むのは慣れてるんだ。一度行った場所は覚えてる。
「都会の方からね、何ヶ月かごとに交代で一人、警察の人が来るの」
 はっは、さすが田舎だ。もはや町じゃなくてそりゃ村だろ。そういえば平和だよなぁ、この町。あんな呑気な警官初めて見たよ。普通なら懲戒免職ものじゃないのか? 土地柄なのかね。でも、そんなことで治安が維持できるのか? 抑止力がないと、善良な市民でも間違って出来心を起こしちまうよ。
 待て待て。そういう問題じゃない。観鈴は何と言った? 警察は一人だけ来てるって? おかしいじゃないか。『徳さん』と『山ちゃん』は? あの駐在所には、警官が少なくとも二人は居たはずだ。あと一人も居た。麻雀が成立してたんだ、四人居たことになる。二人/三人麻雀もできなくはないが、サンマは関西で主流の特殊ルールであって、そういえば晴子はどうして関西弁なんだっけ?
「往人さん……」
「観鈴、とりあえずお前は学校に行け。さあ」
 えーと、ドライバードライバー。




 観鈴をいつも通り学校まで送ったら、まるでデジャヴ。昨日も見たこの風景。今日はちょっと雲が多いのか? なら少しは暑さがやわらぐからそれはいいことだ。だがこの調子だとまた、昨日のように晴子が暴走族みたくバイクをすっ飛ばして来て、俺はふん捕まっちまいそうだから、行動は迅速に。観鈴から聞いた遠野の住所はしっかりメモったので、そこに行くとしよう。でもその前に少し胃に何か入れないと、暑さ以前に倒れてしまう。喫茶店なんて気の利いたものは生憎だがこの辺にはない。金は何故かポケットに入ってるから、自販機で何かジュースでも買って飲むしかないか。商店街のような人の多いところはできれば行くべきでない。そういえば観鈴が前にやたらプッシュしていたゲルルンジュース。あれなんかいかにも胃に溜まりそうで今の俺にはピッタリなのでは? 観鈴、ナイスだ。今日から我ら、変なジュース同盟。あ、その前にトイレ。
 色々な生理的欲求を満たしたりごまかしたりした俺は、いよいよ遠野の家に向かう。住所から実際の場所を探り当てるのは結構難しい。歩いていると時々、電信柱に何丁目何番なんていうプレートがかかってはいるが、その文字がどこまで適用されるのかいまいちわからなかったり、2番地の次が4番地になってしまったりするので、混乱してしまう。こういうのは地元の人間に訊いても把握していない場合が多いから、やむを得ず商店街の隅にあった本屋でこそこそと地図を購入する。俺を探しているであろう晴子に見つかるわけにはいかない。
 そうして遠野家に着いたのが太陽の高さから見るに多分昼頃。他の民家と比較しても至って普通の木造一軒家だ。表札にも遠野とあるので間違いない。まず俺はインターホンを続けて9回押した。しばらく待って、今度は2回押す。それから素早く生垣の内側に入り込んで身を潜めていると、3分ほどしてガラガラと戸を開けて玄関から遠野が出てきた。よしよし。
「遠野」
 門に歩いてくる遠野を小声で呼び止める。ちょうど郵便受けの下にある木と植え込みの隙間で、外からは姿が見えないような位置に俺は座っている。
「国崎さん」
 すぐに声の元を察知してこちらに向き直る遠野は妙な表情をしていた。何か愛おしいものを見るような、安堵したような表情。は?
「よう遠野。約二日ぐらいぶりだな。元気だったか」
「はい。国崎さんは、色々と苦労されたようですね」
「全くな。遠野はどうだったんだ。大変だったか?」
「いえ、国崎さんに比べたら私なんて、へっちゃらへーです」
 ふむ……どうやら美凪は俺の直接的な敵というわけではないようだ、と、いいんだが。
「いくつか訊きたいことがある。お前、学校には行ってないんだな」
「今、学校に行っているのは、部活動をしている人と補習を受けている人ぐらいだと思います」
「ああ、夏休みな。みちるはどうした?」
「みちるは……ここには居ません」
「そうか。じゃあ本題だが……事件の後、取調べは受けたか?」
「はい」
「みちるもか?」
「それはわかりません。みちるは小さいですし、もし受けていても、別室でやっていたでしょうから私には確認できませんでした」
「なるほど。ところで俺が持っていた人形は知ってるか?」
「国崎さんがいつも持っていたものですか?」
「そうだ。あれが事件の前後でなくなっちまったんだ。どこにあるか知らないか?」
「わかりません」
「ほう」
 残念だよ遠野。
「じゃあ次はこれを見てくれ」
 俺はさっき買った地図の冊子を鞄から取り出し、ページを捲くった。
「これは?」
「この町の地図だな。結構いいものを買ったんだ。旅してる俺が知らないのも変な話だが、最近の地図ってのはすごいな。町名なんかを確認するつもりで買ったのに、これは人家の名字まで載ってやがる。個人情報の漏洩になるんじゃないのか? 役立ったから俺はいいんだが」
「…………」
「それで訊きたいことだが、まあここを見ろよ」
 それは町全体の概略図が載っているページで、鉄道、国道、大きな道路、区画ごとの大まかな地名、主要施設の位置などが描き込まれているところだ。
「ここがあの駅だな?」
 廃線になっているが、今も運行している鉄道の区間との位置関係、地理的条件から考えて、おおよそ、そこになるだろうという場所を指しながら俺は言った。
「はい」
「ここが学校」
 『文』が○で囲まれた記号を指差す。
「そうです」
「この辺が遠野の家で、この辺が観鈴の家だよな」
「はい」
「間違いないようだな。じゃあここからが大事なんだが、駐在所ってのはこれだよな?」
 町の、比較的外れにある場所にある×印を指して、俺は言った。
「これもまた恥ずかしい話だが、知らなかったよ。警察署と駐在所って違う地図記号なんだな。丁寧に解説がついてたよ。×に○が警察署。×だけが駐在所」
 さすが1680円払っただけのことはあるというものだ。
「で、図をくまなく見たところ、この町には警察署はなくて、駐在所は一件しかないようだ。じゃあ俺が行った場所はそこでないとおかしいよな。それで、観鈴から聞いた話だが、どうも俺が歩いてきた方向は、駐在所がある方じゃなかったらしいんだよ。記憶を掘り返してみても、確かに俺が歩いてきたのはこの地図の方角とは逆なんだ。おかしいよな」
「おかしいですね」
「それで、ここにはどこかの都市から派遣されてきた警官が駐留してるんだって?」
「はい。半年に一度、人が代わります」
「何人来るんだ?」
「一人、ですね」
 それにしてもどうして遠野はこんな顔をしているのだろう。その視線の先に俺は居ない。恍惚とした、俺なんか眼中になくて、それよりも遙か遠くにある何かを見て、それに向かって、つまらない話をする俺を上の空で取り合わず、不真面目な自分をそいつにアピールして、誰かと悪戯めいた遊びを共有しているような、ちょうど先生に怒られている小学生が友人に向けてやるようなあの、おい、ちょっとこっち見ろよ。
「そりゃおかしいな。俺は少なくとも二人の警官とは言葉を交わしたはずなんだ。制服は着ていなかったかもしれないが、ここに派遣された警官は独自に地元で人を雇って仕事するのか? それとも今までに来た警官が帰らずにどんどん溜まっていくのか? そりゃここは平和でいいところだから、住みたいと思うやつが居ても不思議じゃないが、そういう問題じゃないだろ。それに、同時にお前も調査を受けてたんだろう? その時点でもうおかしいじゃないか。どういうことなんだ」
「わかりません」
「ふうん。そうか。じゃあ次だが、これ、何だと思う?」
 俺は腕をまくり、左手の肘と手首の中ほどの辺りにできている、炎症を起こしたような小さい脹らみを顕わにした。
「自慢じゃないが俺は滅多に蚊に刺されないんだ。汗をあんまり掻かないからかな。なあ遠野、こんなところを、シャツの上からだぜ、噛まれるものかね。どう思う?」
「蚊にかまれる割合は通常、脚が5割、手が2割、胴体が2割、顔が1割と言いますからね。あり得ることではないですか?」
「ほう」
「嘘ですけど」
「遠野、お前、何か知ってるんだろ?」
 遠野はようやくこっちを見たが、目が、いや全部、微笑っている。
「ベンゾジアゼピンってわかりますか?」
「さあ」
「では、睡眠薬のハルシオンはご存知ですか? その類の薬によく用いられている物質ですよ。これは前向性の記憶障害を引き起こす副作用があるんですが」
 はぁ、これも自慢じゃないが、俺は化学は苦手なんだよ。知識も興味もない。けど大事なことはわかったし、まあいいや。よくないが。
「なるほど。ろくな蚊じゃなかったわけだ」
「詳しいことはわかりませんよ。そもそも前向性なら、注射してからの記憶に影響があるだけで、それ以前のことには関係ないはずですから。きっとそれを応用して調合されたものなのではないですか?」
 鞄の中から取り出したドライバーを手に取って、俺は立ち上がった。
「オーケー。遠野、おとといのこと、全部話してもらおうか」




 遠野からサングラスやら何やらを頂いて変装し、俺は今、商店街の只中に居る。目指すは霧島診療所。俺が探しているものは全部そこにあるという話だ。人形と、俺が欲しいレベルの真実が。それにしてもあの医者、やってくれる。ぶっ殺してやろうか。って今の俺が言ったら本気に聞こえるだろうからやっぱ嘘。
 でかい大学病院とかならいざ知らず、こんな片田舎の個人医院の医者なんて、のんびりした商売だ。平日は朝ちょろっと開けて、かなり長い昼休みを終えてまたちょろっと診察して終わり。それで高収入になるんだから羨ましい。国がバックについてると強いな。このクソ暑い外気など気にしないで、クーラーの効いた涼しい診察室で、カルテ片手に小難しい顔しながら適当なことぼそぼそ言って、気が向いたらお腹開いて、高い薬出してお愛想お願いします、そんなもんだろ。ってこりゃさすがに穿ちすぎかもしれんね。
「こんちは〜霧島せんせ〜、頭痛が扁桃腺で悠久パプステマなんです〜。診てくださ〜い」
 『休診中』って札がかけられたドアを開いて、靴を脱ぎながら奥の部屋に向かって俺は声を張り上げた。うーん、涼しい。別世界のようだ。
「病名がわかっているなら診なくてもいいだろう。薬は出してやってもいいが、保険証は持っているのか?」
 すぐに聖が出てくる。
「あっ、先生。ちょっと俺の頭、機能不全みたいだから気にしないでください。便所スリッパとかいう物質が身体を駆け巡って、どうやら変態になってしまったようで」
「ベンゾジアゼピンか? 変態なのは地が解放されただけだろう。そんな作用はない。単なるプラシーボだ。まあいいから、その不細工な武器はしまいたまえ」
 構わず俺は話した。
「人形がここにあると聞いたんだが」
「遠野くんに話は聞いたようだな。すると記憶は戻ったのか?」
「ああ」
 嘘だが。
「そうか。ま、気まぐれで作った試薬だから、どうせすぐ効果は切れると思っていたが。遠野くんがどうしてもと頼むので使ったまでだ」
「いいからまず人形を返してくれ」
 聖は受付まで歩いて、カウンターに乗っていた俺の人形を投げてよこした。
「勝手に飾ってやがったのか」
「私だって悪趣味だと思ったが、置き場所に不自由してね。その分、君に持たせた金には色をつけておいたし、細かいことは気にしないでくれ。それと、遠野くんをあまり責めないでやれ。彼女は君を庇ってああしたんだからな」
「わかった」
 既に遅いけどな。ま、もう二度と会わないだろうから、今後は大丈夫だよ。
「もう警察は本格的に動いているみたいだな。県警がうちに訪ねてきたよ。町の無人駅前で遠野くんのお父さんが他殺体で見つかったが、何か見たりしていないかと」
「何?」
 遠野の父親?
「ん? どうした」
「遠野の父親が何だって?」
「国崎くん。君、やはり記憶が戻っていないんじゃないのか?」
 そうなんだが。まあいいだろう。
「ああ、戻ってない」
「……そうか」
 聖はため息をついた。
「いいだろう。遠野くんには悪いが、君にはやはり本当のことを教えておこう」

 つまり晴子は正しかった。俺はおととい、無人駅で遠野とみちるを見つけた。二人の前には中年の男が立ちはだかっていた。ここまでは今、俺が持っている記憶と一致する。だがここからが違っていて、その男は怪しい格好をしたキ印ではなく、遠野の父親だったのだ。遠野の父親はずいぶん前に家を出ていたが、その日、何らかの理由でこの町に戻ってきていて、遠野に接触を図っていたのだという。
「そして彼と遠野くんは口論になり、最終的に彼は遠野くんを組み伏せて、刃物を用いて脅しにかかったというんだ。そこで君が彼女を助けに入ったが、奮戦の末に彼を殺めてしまった」
 それから俺は美凪に霧島診療所へ連れてこられ、治療を受けていたが、遠野は、俺の事件に関する記憶を消せないかと聖に相談したそうだ。聖は、方法はあるがすべきではないと反対したが、強い遠野の希望により最終的にそれは実行されたということらしい。
「悪事の片棒を担ぐ、というよりほとんど私が主犯のような内容だが、彼女のために何かしてやってもいい気になってね。彼女の提案を成功させるためには、色々とクリアしなければならない難題が多すぎて、無駄だとは思っていたのだが。現に君はここに来たし警察も捜査している」
「俺が持っているこの謎の記憶は何なんだ?」
「知らないよ。夢でも見たんじゃないか」
「適当だな」
「適当だよ。私は父親を亡くした遠野くんの意志をせめて尊重したいと思って、手助けしただけだからな。言ってしまえばただの気まぐれだ。彼女は君を、彼女の父親の死から解放したかったようだが、なぜこんな手段を用いたのかはわからない。彼女がお父さんとどういう関係にあったのかもわからないし、結局のところ何もわからん。彼女が君をどうしたかったのかもな」
 実に混沌としているな。記憶を失っている俺には、その殺した男がどんな奴なのかもわからないし、なぜ遠野が俺をこんな変な方法で助けようとしたのかもわからない。更には聖の言ってることが本当なのかもわからん。わからないことだらけだ。もしかするとこいつらは、遠野の父親の死を俺のせいにしようとしてるだけなのかもしれない。俺はあれ以来、警察と接触していないわけだから、死んだのが本当の遠野の父親なのかも、警察が動いているのかも、もっと言えば、殺人が実際に起きたのかどうかも確認できていないのだ。ただ、俺の記憶という、通常なら最も信頼すべきものによれば、俺はよくわからない男を誤って殺したが釈放され、晴子に謂れのない罪を喧伝されているだけの旅人だ。本当に俺は事実ではない記憶を持っているのか? 聖や遠野を信用していいのか?
 差し当たって、どのコースを選ぼうか、悩ましい。
「国崎くん。君はこの町を出た方がいい」
「何?」
「警察にとって、外から来た君はいかにも怪しい。怪しいというかまさに真犯人そのものだが、いずれ君にも疑いが及ぶだろう。私は死人や、知りもしない者への贖罪などにこだわるほどロマンチストではないから、せめて遠野くんの意志を尊重したい。君が大事にしている人形をここに置いたのもそのためだ。大胆な行動に出る前に、ここへ君を立ち寄らせて、私の解説を聞かせるつもりでね」
「周到だな」
「本当は、私の悪事を記憶してしまった君をこのままどこかに逃がすのは気が進まないんだが。どうだ、もう一回、私の特製メディスンを注射して、洗いざらい、綺麗さっぱり忘れてみないか?」
 冗談。




 俺は暮れなずむバス停でぼうっとしていた。何のためにかというと、それはバスに乗るためだ。俺はこの町を出る。日本を10回は縦断できそうなぐらいのバス代を聖からもらっているので、国内ならどこにでも行ける。今は真夏だから、思いきり北の方に行くのもいいかもしれないな。でも今は猛烈に腹が減っているので、近場で降りて飲食店を探したい。とりあえずは、さっさとここを離れてしまいたい。それが至上命題であることは確かだ。面倒は嫌いだからな。
 それにしても、疲れた。疲れすぎた。結局、何がどうだったのかはわからないまま。そりゃそうだよな、物事を判断するべき俺の脳みそに、情報欠損が生じているわけだから。本当ならこんな目に遭わせたあいつに直訴して然るべきだが、貴様は殺人犯だけど世話してやったんだ、なんて言われてしまうと、迂闊に責められず、この端金程度で我慢するしかない。それもこれも含めて経緯が全て闇の中だから、もういいかというわけで俺はサヨナラバスだ。ああ、本当、疲れた。
「往人さーーーーーん」
 口と胃寂しさに缶ジュースを飲んでいると、遠くで誰かが俺の名を呼ぶのが聞こえた。
 長い道路の向こうから、観鈴がこっちにやって来ているのが見える。
「往人さん」
 観鈴がバス停までたどり着く頃には、既に缶は空っぽになっていた。くずかごに缶を放り投げながら俺は訊いた。
「何しに来た?」
「往人さん、迎えに来てくれなかったから」
「あん?」
 ああ、そういえば、そうだった。昨日と全く同じパターンになってしまったようだ。
「色々と事情があってな。今日で、もうこの町を出ることにしたんだ」
「えっ」
「これからバスに乗って、別のところに行く。お前とはここでお別れだ。だからもう送り迎えはできない」
「そんなの、言い訳になってないよ。往人さんはまだこの町に居るじゃない。だから、今日の帰り、迎えに来なかったのは、往人さんが悪いよ」
「すまん」
「ねえ、往人さん、本当に、出て行っちゃうの?」
「そうだ。決めたことだからな」
「……そうなんだ」
「そうだ」
「じゃあ、明日も、納屋に行ったら、往人さんが居たり、しないのかな」
「しないな」
「そっか」
「ああ、そうだ、観鈴、これ返すよ」
 俺は担いでいた唯一の荷物、納屋で拾ったバッグを観鈴に差し出した。
「全く、お前の家を出てからろくなことがなかったよ。俺はどうかしちまったみたいだ」
「そんな、往人さんはどうもしてないよ」
「してるんだよ。お前にはわからないと思うが、おとといから丸三日、すごかった。ほら、これもやるよ」
「これは」
「この町の地図だよ。買ったんだ。知ってたか? 警察署と駐在所って地図記号が違うんだよ。あー、ほんと、どうでもいいことばっかりだな」
「ううん、そんなことないよ。往人さん、この町のこと知ろうとして、この地図を買ったんだよね」
「そう言えなくもないな」
「それって、わたし、ちょっとうれしいな」
「何でだよ」
「えっと、えっとね、あ、そうだ、往人さん、お腹すいてるなら、わたしが」
「お前な、話聞いてんのか? 俺はこの町を出るって――」
 言ってる間に、観鈴の目に涙が溜まっているのに気づいて、俺は言葉を止めた。
「わたし、おかしいよね。わたし、往人さんがどこかに行っちゃうことが、悲しいわけじゃないの。わたしね、往人さんが、家を出ようとしてた時にね、どうしてもっと強く止めなかったんだろうって、おかしいよね、こんなの、わたし、往人さんが出て行くのを止めるなんて権利、ないのに、でも」
 観鈴は顔をくしゃくしゃにしてぐずり始めてしまって、もしかしたら癇癪を起こしてしまったのかと思ったが、語る言葉ははっきりしている。
「往人さんが行っちゃったら、悲しくなるってこと、わかってたのに、それはただわたしのわがままなんだと思ってたら、そうじゃなくて、往人さんはやっぱりあの日、出て行っちゃダメだったんだよ。わたし、わかってた」
「わたしたち、きっと、おかしな世界に迷い込んじゃったんだ。往人さんが、遠野さんのお父さんが、遠野さんたちと一緒に居るところを見ちゃって、そこから全部、おかしくなっちゃったんだ。往人さんが、駅に行っちゃったから。お母さん、いくらなんでも、あんなことしないよ。遠野さんだって、霧島先生だって。わたしだって、こんな、変なこと、言わずに済んだのに」
「きっと、往人さんが駅に行かなかった世界のわたしは、それもひょっとしたら、悲しいかもしれないけど、でも今よりはずっと、ずっとずっと、幸せだったと思う。わたしも、往人さんも。わたしたちは、こんな風にお別れしちゃダメなんだよ」
「まだ、見ていない場所があるよ。まだ、見ていない景色がある。なのに、途中で放り出して、行っちゃ、ダメなんだよ、往人さん。なのに、どうして、こんなに徹底的なの? どうして、往人さんはそんなにお金を持ってるの? どうして、何台もパトカーが走っているの? こんなの、おかしい」


「往人さん。わたし、こんな世界、嫌だよ」


「そうは言ってもな」
 硬いアスファルトに膝を突いて、嗚咽を繰り返す観鈴に、俺は別段、ある種の感動を覚えるわけでもなく、苦言を呈してしまうのだった。
「お前が言ってることは、『あの時、ああしなかったらよかった』ってだけのことだろう」
「違う! そうじゃないの!」
「違わないだろ。今、ああいう出来事を乗り越えてきたから、過程が過去に変わって明らかになったから、俯瞰して言えることだ。現実に直面していた俺たちは、その場で最善の行動をしたはずだ」
「そんな……。往人さんは、こんなのでいいの? まだ、未来があったはずなのに」
「馬鹿。未来なんてこれからいくらでもあるよ。俺はどこかでまた旅を続けるし、お前や晴子だって、この町で暮らしていくんだろう。ただ俺たちはここで別れる、それだけのことだ」
 観鈴は泣き止まない。ふと気がまぐれ、観鈴の頭の上に手を置いて、軽く撫でてやる。適当な慰めに過ぎないが、しないよりはいいだろう。
「今まで、世話になったな」
「行っちゃ嫌だよ、往人さん」
「あんまり困らせないでくれよ。な、もうすぐバスが来る」
「でも」
「もう泣くな」
 バスが来て、俺が乗り込む時になっても観鈴は泣き顔のまま、地面を見つめていた。このまま放っておくのは少し気が引けたが、かといって家まで送ってやるわけにもいかない。せめて、と車窓から姿を見ていたが、観鈴は動かなかった。観鈴が乗るのか待っていたのだろう、しばらく扉は開いていたが、やがて閉まる。エンジンが低く唸り、進み出す。
 車の揺れに身を委ねながら、俺は観鈴が最後に言ったことを考えていた。確かに、あのまま家を出ず、駅に行かなければ、今のように逃亡者さながら、慌てて町を出るような事態にはなっていなかったのかもしれない。その方がよほどいいと思う。だが、ああしていたらよかった、ああしていればこうはならなかった、という想像の何と脆弱なことか、馬鹿馬鹿しい現実は今、俺の目の前にあるわけだ。あのまま町に居れば、何か画期的な未来が俺たちにはあったのかもしれない。でも、本当はこれがよかったのかもしれないぜ? こうして俺が町を出なければ、もしかしたら、もっとひどい未来が待っていたのかもしれない。そんなもの、今の俺を取り巻く状況と同じだ、杳として知れない。観鈴が嫌だと言ったこの世界だが、そこに生きる俺たちに、そんな仮定は無意味だろ?
 現実に生きる俺は、これからのことを考えた。何とも先が読めない状況には違いないが、しばらくは逃亡生活を覚悟した方がいいだろう。だから、できるだけ遠いところへ行こう。まずはこのバスで、終着駅まで。その先のことは、その時だ。


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