Fiction Junction Gamestation


 通学路で会うなり開口一番に北川潤が「エロゲ!!!」とか抜かしやがったので俺はその鼻先に思いっきり握った拳をぶち込んでやる。すると北川は「あひぃ、あひぃ」と鼻血を流しながら何かを求めるように手で宙を掻いてもう俺を見ていない。朝からゴミのようなことを言っているこいつにはやはり何らかの暴力的制裁が必要だったろうし、三十年後の分別ある北川潤がこの事件を回顧したら、今の俺の行動を肯定しただろう。
 しかし北川は何も無意味に卑語を口走ることで開放感を得たかったわけではないし、そんなことよりも余程重大な問題提起を抱える資料を手にして俺の前に参上していたのだから、むしろ北川の行動の方が肯定されるべきだったのかもしれないと俺は考える。その時の北川の手にはまさしくエロゲがあったのだ。タイトルは『Kanon』。



 18禁ゲーム『Kanon』をコンプリートして俺は考える。このゲームに出てくる『相沢祐一』『北川』という登場人物の存在。俺・相沢祐一と俺にこのゲームを手渡した友人・北川潤、そして『Kanon』の登場人物『相沢祐一』『北川』の符合をどう考えるべきなのかも考えていた。エロゲに初めて触れた俺にとって、生粋のゲームオタク・雪村太一の言葉は重い。
「このゲームは確かに君と北川に似たような性格と外見で、同じ名前のキャラが出てるな。っていうか僕は当然、君たちに会った時から知ってたよ。ただ君たちは僕なんかとあんま話さないし仲良くないじゃん? 畑が違うっていうかさ。だから別に教えたりしようとは思わなかったけど。名前がたまたま一致するってことはさ、まあそりゃすごい確率だけど、別にありえることだし。それに他のキャラは全然居ないっしょ? 居たら怖いけどさ。ま、気にしないでいれば?」
 太一は俺と北川とヨッシーと田淵とゴリの間でキモオタとしての地位を確立していたので元々距離は遠かったが、俺はやはり太一と仲良くはできないと思った。北川はエロゲなんか持ってくるあたりで既に俺の中で太一側だが、それでも絵で描かれたゲームキャラと現実の人間を『似たような外見』なんて言って比較できてるのが理解できなかった。北川はあんなに目がデカくないし、俺なんかは一部のCGでしか出てきてない。目が映ってないし、顔のパーツ自体なくねぇ? ブルブル、太一死ね!
 でも太一の言ったその他のことはもっともだし、俺が一番聞きたかった言葉でもあった。北川がどういうつもりでこんなゲームを俺に渡したのかは分からない。北川が『水瀬名雪』で3回、『美坂栞』で10回、『川澄舞』で5回ほど自慰をしたが一番好きなのは『倉田佐祐理』だと言った時、俺は太一と北川を殴ってキスさせるほど動揺していた。

 次の日、北川が続けてエロゲを持ってくる。断ったものの「いや、とりあえずやってみろ」と押し付けられたのでコンプしてみたけど、やっぱやめときゃよかったと後悔する。今回北川が俺に渡したのは『ONE』というゲームで、『Kanon』と同じようなエロゲだった。それだけなら別にいいんだが、登場人物である『七瀬留美』という女の名前は、俺の彼女の名前と同じだった。
「あたしの友達の妹に椎名林檎って名前の子が居るんだけど、それが原因でその子イジメられちゃって登校拒否ってんだよ。林檎だったらまだ分かるけど、それがエロゲのキャラってあんた、最悪。二度とそういうこと言わないで」
 そんな会ったこともないイジメられっ子の事情を引き合いに出されても知らんとしか言えんが、一概に留美の理不尽だと撥ねつけれる訳でもないだろう。ヤバい。言うんじゃなかった。留美は確実に引いたと思う。その時俺が『Kanon』と『ONE』のマニュアルを手にしていたのもまずかったと思う。留美には俺が太一のように見えたに違いない。
 大体、椎名林檎みたいな有名人と同じ名前の子供が居るっていうのは、親の名字が椎名、かつ椎名林檎が好き、かつ娘が生まれた時に稀に起こることなのだ。たまたまってケースもあるだろう。だからどっかには居るはずだ。でも俺や北川や留美の場合は、俺らの方が先なのだ。『ONE』も『Kanon』も俺たちよりずいぶん後に生み出されたものなのだ。力道山や木村拓哉からお名前拝借なんていうのとは訳が違って、逆だ。
 北川も『七瀬留美』の符合に気付いたから俺に『ONE』を手渡したのだ。今やヨッシーや田淵やゴリに捨てられて太一とエロゲを貸し借りしてクラスの人間からホモオタと呼ばれるようになった北川は、悔しいが俺の今の心境を最も知悉している人間に違いない。
「『ONE』は1998年5月28日発売。発売元の『Tactics』は『NEXTON』のブランドの一つで『心に届くADV第2弾』というキャッチコピーで出てる。ヒロインは『長森瑞佳』『七瀬留美』『里村茜』『上月澪』『椎名繭』『川名みさき』等々……。『Kanon』は1999年6月4日発売。発売元は『Key』で『ビジュアルアーツ』のブランドの一つ。ヒロインは『水瀬名雪』『美坂栞』『沢渡真琴』『月宮あゆ』『川澄舞』等々……そんで『相沢祐一』『北川』。『北川』の方は後付け設定だけど俺と同じ『潤』という名前になってる」
 俺は北川の部屋で、北川がまとめた『ONE』と『Kanon』についての資料を見ている。壁を見ると前に来た時に貼られていたhideのポスターやX JAPANのアルバム・Jealousyのジャケットを拡大コピーしたものは剥がされて、代わりに『涼宮ハルヒの憂鬱』や『みずいろ』の大きなポスターが貼られている。
「この『ONE』のところなんだが、『心に届くADV第2弾』ってあるよな? 『第1弾』は何だ?」
「『MOON.』というゲームだ。こっちはあまり売れてない」
「じゃあこの『ONE』は売れてるのか?」
「比較的な。そして『Kanon』はもっと売れて『AIR』がピークで、『planetarian』『CLANNAD』『智代アフター』と続く」
「え?」
「今言ったゲームは開発したクリエイターがほとんど同じなんだよ」
「でも『ONE』は『NEXTON』の『Tactics』で、『Kanon』は『ビジュアルアーツ』の『Key』なんだろ? ブランドも親会社も違うじゃねぇか」
「『Tactics』からスタッフがごっそりと『Key』に移ったんだよ。だからこれは一連の作品とするのが世間での共通認識だ。まあ『planetarian』に関してはちょっと違うが……」
「よく分かんねーよ」
「まあそれは後で検証しよう。今は『ONE』と『Kanon』に集中した方がいい。相沢は両方コンプしたんだよな?」
「した」
「なら話は早いが、じゃあまずお前の感じたことを聞かせてくれ」
「感じたことって言ってもな」
 俺は北川のオナニーランキングを思い出した。
「知ってる名前があっただろ?」
「知ってる名前も何も、俺とお前だ」
「『相沢祐一』と『北川潤』。他には?」
「他はない」
「ふむ。確かに『雪村太一』も『吉野寛和』(ヨッシー)も『田淵恭平』(田淵)も『西岡一郎』(ゴリ)も『Kanon』には出てきてないし、逆に俺らの知り合いには『水瀬名雪』も『美坂栞』も『川澄舞』もその他のキャラも居ない。隣のクラスに『久瀬』は居るが、生徒会長でも役員でもないただの野球部だ」
 そういえば『久瀬』は居た。すっかり忘れていた。だが知り合いじゃないし顔を見たことしかない。
「でも『Kanon』と俺たちが共通してるところは多いんだ。雪国だし、共学の高校だ」
「そんなの一般的過ぎるだろ。共学の高校なんて世の中にいくつあるんだよ」
「まだあるぞ。俺(北川潤)とお前(相沢祐一)は同じクラスだ。性格も外見も似てる」
「外見だぁ?」
「刮目して見ろ。お前は不慣れと嫌悪感からそう言うが、例えば似顔絵というのは人の顔をそのまま写実的に描く方法以外に、目立つ特徴を誇張して含めることで表現しても成り立つ。人間は現実という複雑で膨大な情報の中から記号を抜き出し整理することで効率的な認識を成功させて、生活の中でそれを出し入れしたり加工しているんだ。二次元的にデフォルメされたキャラクターからその記号を取り出して実際の人間に重ねることは容易い」
 俺は「おめでとう」と言った。
「そして確認するが、『ONE』にはお前の女と同じ名前『七瀬留美』が居たはずだ」
「ああ」
 留美の顰めた横顔を思い出す。情けなくなった。
「他には居なかったか?」
「居ないな」
 『長森瑞佳』も『里村茜』も『椎名繭』も『川名みさき』も……その他も居ない。だからこそ気味が悪かった。『Kanon』で突然名指しされ、『ONE』で留美を指名され、それっきり何も続かない宙ぶらりんな状態に、えも言われぬ不安を感じている。
「でもな相沢、実は、俺の母さんの旧姓は『長森』なんだ」
 北川が神妙な表情で告白するので、俺は一つの危惧を訊ねることにした。
「なあ。お前はもしかして、このゲームと俺たちに何らかの関わりがあると考えているのか?」
「もちろんだ」
 キッパリと北川が言うので、俺は飛び出しそうになる右手を堪えて更に言葉を継がなければならない。
「北川、お前は確かに普通の意味では頭がよくなくて違う意味では頭がいいけど、今回は頭が悪い方のお前の仕業だ。何でだ? 俺たちがどうして成人指定のエロゲに出演しなくちゃならねえんだ? しかもこんな中途半端な形で?」
「成人指定じゃない。18歳以上指定だ」
「そんなこと訊いてねぇ」
「何でだよ相沢。お前も俺のように、このゲームは俺たちに関係あると考えてるんじゃないのか? だから俺の家にわざわざ来たんじゃなかったのか? 俺は今日、お前とそれを確認し合うつもりで話してたんだぜ」
「俺は全くその逆だ」
 太一の「そういうこともあるんじゃない?」をより深く確認するために、太一Uと成り果てた北川を訪ねただけだ。
「へえ、そうか。でもどっちにしろ構わないだろ。俺たちとこのゲームは、関係あるよ
「何でだ」
「例えばだ。『吉野寛和』の『野』の左半分を見ると『里』。そして『雪村太一』の『村』、『西岡一郎』の『西』に『田淵恭平』の『恭』の最初の三画をかぶせると『茜』になる」
「はぁ?」
「『里村茜』だよ。『ONE』の。黄色いロングヘアーの」
「…………」
「そんでさっきお前が言ってた、留美ちゃんの友達の妹の椎名林檎って子。名字『椎名』だろ。そして学校でいじめられてヒッキー。つまり自分の『繭』に閉じこもってると……」
「待てよ!」
 俺は叫んでいた。北川はきっとこの調子で他のキャラのことも説明してしまうだろう。『ミサ・菓子折り』だとか『躱す見舞い』とか『皆・瀬名行き』などと言い出すんだろう。『AIR』や『MOON.』やその他のゲームについても俺たちの生活の周りに余さず配置し、北川は真のエロゲ世界へ旅立つんだろう。ああさよなら北川太一……。



 そんなものでは誰も幸せになれないので、俺は北川をぐるぐるに縛って学校に行ってトイレの個室に閉じ込めて『えいえんのせかい』と貼り紙をしてから『Key』の開発室に向かった。『ONE』と『Kanon』の、そして『MOON.』『AIR』『CLANNAD』のシナリオを担当した『麻枝准』が現在所属しているソフトハウスが『Key』なのだ。新幹線で新大阪駅に行き、JRに乗り換えて天満駅に着く頃にはもう夕方近くになっていた。今から『Key』に行ったとしてもどうせ日帰りはできないことは分かっていたので、とりあえず泊まれる場所を探す。すぐ大きなチェーン店の漫画喫茶を見つけて個室を一つ取った。大袈裟に柔らかい椅子に凭れてウーロン茶を飲みながら、電源の切れたパソコンディスプレイに映るぼやけた自分の顔を見つめた。
 ここまで来て何だが、俺は迷っていた。俺と同じ名前をした『相沢祐一』を生み出した『麻枝准』。『北川潤』によって幻想の世界に誘われ、強引な見立てに心酔してしまった北川。留美と同じ名前をした『七瀬留美』。この符合の説明を、狂った北川の口からではなく、ただの傍観者である太一の口からでもなく、『麻枝准』の口から聞いてみたくはあった。その衝動が少なからず俺を大阪の地に足をつけさせた根拠となることは確かだ。
 しかしそれが奇異な行動であることも自覚していた。はるばる田舎から都会の事務所に乗り込んで「俺と友達と彼女の名前があんたのゲームに出て来てるんですけどね。口より上のパーツないけど、どうも俺らに似てるらしいんですわ。あんた俺らのこと隠し撮りとかしてキャラデザしました? 『里村茜』は『野』の左半分と雪村の『村』と『恭』の最初の三画と『西』を繋げた見立てですか? 北川のお母さんが癌で入院してる義母のお見舞いに行ったら脱走してたから『川澄舞』が生まれたんですか? どうなんですか?」なんて口走ったらただの妄想野郎と思われるのが関の山だと思う。訴訟も起こせず、せいぜい散々粘って帰りの交通費を貰えたら最高だろう。ああ俺は何て意味の分からないことをしているんだ……。
 諦めてパスタを食べながらネットゲーをしていると『えいえんのせかい』から電話があった。
「相沢、今どこ」
「大阪」
「は? 何で大阪に居るんだ」
「そんなのどうでもいいだろ」
「ああ、そうだ、相沢、大変なんだ。転校生が来た」
「転校生?」
「えーと、ちょっと待ってくれ」
 ガサガサと紙の音がする。
「『水瀬名雪』『美坂栞』『美坂香里』『沢渡真琴』『月宮あゆ』『川澄舞』『倉田佐祐理』『天野美汐』『折原浩平』『長森瑞佳』『七瀬留美』『里村茜』『椎名繭』『上月澪』『川名みさき』、えー……『柚木詩子』『広瀬真希』『深山雪見』『氷上シュン』『住井護』『神尾観鈴』『霧島佳乃』『遠野美凪』『岡崎朋也』『古河渚』『伊吹風子』『藤林杏』『藤林椋』『一ノ瀬ことみ』『坂上智代』『宮沢有紀寧』『春原陽平』」
「え?」
「『Kanon』と『ONE』と『AIR』と『CLANNAD』だよ。男子4人、女子28人。櫨谷第一女子高から留美ちゃんもなんでかうちに転校して来てんだよ! 『MOON.』と『planetarian』には現役の学生が居ないから、実質『Key』に関係する作品に出てくる高校生は全員出てることになる。『智代アフター』に関しては俺もやってないから分かんねぇんだけど、もしかしたら『麻枝准』に関係してるのかもしれない。『planetarian』はシナリオが『麻枝准』じゃないんだ」
「…………」
「あ〜〜〜やべぇよ相沢、俺『美坂栞』で20回も抜いちまったよ〜〜。同じクラスだったらどうしよう」
「ボケ! そういう問題じゃねぇだろ。そんなにいっぱい転校生なんか来るわけねぇだろ」
「でもマジで来たんだよ。だからクラス一つ増えちゃったんだよ。異例のクラス替えで今日は授業なしで、大混乱だったんだよ。相沢、俺どうしたらいい?」
 北川は錯乱を装っているが、内心は酷く冷静に喜びを噛み締めているに違いない。俺に簀巻きにされた復讐エイプリルフールかとも思ったが、こんなすぐにバレる嘘を北川は吐かない。
「俺、明日から金髪に染めて来た方がいいのかな? 頭のアンテナみたいなやつも作んないと駄目かな? あーチクショウ、相沢はいいよなぁ主人公格だから。脇役は辛ぇなぁ。『住井護』って確か俺と同じような立場のやつだよなぁ。友達になれっかな〜。『春原陽平』もそうだけど、あいつは原作じゃ超チャランポランだからなぁ。やべ〜普段の言葉遣いにも気をつけねぇと、『北川潤』だもんなぁ〜〜」
 俺は携帯を切るとすぐにメモリを検索して『Key』の連絡先窓口をダイヤルする。
「はい、『ビジュアルアーツ』でございます」
「もしもし、相沢と申しますが、『麻枝准』さんはそちらにいらっしゃいますでしょうか」



 次の日の昼、新幹線を降りてそのまま学校へ出向くと校舎の昇降口の掲示板に巨大なクラス表が貼られていた。転校生だけでクラスを新たに一つ新設してしまうのが一番手っ取り早いのは明白だが、そうしないところを見ると校長が転校生の人権のようなものを考慮したのだろう。一クラス分に匹敵する人数が一度に増えたために、2〜3人に分けて各クラスに配属するのも言い訳が立たないと考えたのかもしれない。転校して来た32人中28人が女子生徒なのだから、そのままクラスを作るのも確かにまずいだろう。何にせよ、学年半ば未曾有のクラス大異動によって今までのクラス関係なく生徒はシャッフルされてしまったらしい。
「よっ、相沢!」
 ちょうど昼休みだったので辺りには人が行き交っていたが、後ろからニコニコ顔とでかい声で北川が肩を叩いて来たので即座に引っ張って『えいえんのせかい』に向かう。ホモになった北川とトイレに入るのは嫌だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「だから間違いなくあいつらは転校して来たんだって。いきなり。同時に。32人が。俺もおかしいと思うよ? でも来たんだからしょうがないだろ。これは見立てとかそんな次元の問題じゃないぜ?」
「全員の顔は見たか」
「全員とまではいかないが何人かはな。『水瀬名雪』と『神尾観鈴』と『住井護』とか……あと『美坂栞』かな」
 『美坂栞』で顔を赤らめるので何発か殴る。
「でも全然似てない。っていうかむしろ対称的だよ。『水瀬名雪』は無口で暗そうなやつだったし、『神尾観鈴』はセカセカして忙しそうで、『住井護』はリーゼントなんかして昔のヤンキーっぽかった。『美坂栞』は柔道でインターハイに出たことがあるらしいデブ女だった……」
 ならさっきの赤面の意味が分からない。北川がデブ専ホモオタに進化した瞬間だった。
「全員同じ学年なのか」
「そう。全員高二。だから余計に大騒ぎだよ。その辺の設定は狂ってる。『美坂』姉妹もこっちでは姉妹じゃなくてたまたま姓が同じなだけみたいだ」
 この状況でたまたまなんて言葉、聞きたくもない。
「きっと雪村あたりはこの状況の意味に気付いてる。これはどう考えても異常だとは思う。もしこれに理屈をつけようとするなら多分、可能性は二つに絞られる」
「二つって何だ」
「誰かの陰謀か、『神』の仕業か」
「…………」
「そういえば、相沢。お前、『Key』の開発室に行ったんだろ?」
「何でお前が知ってるんだ」
「いや普通に分かるだろ。あのタイミングで大阪なら。『Key』が大阪に本拠地を置いてるのは有名だから。で、どうだった?」
「…………」
 俺は結局、『麻枝准』に会えなかった。応対した受付の女性はその手の電話に慣れているのか、不在とか多忙で誤魔化すのではなく、一般からのそういう問い合わせは取り次げないという旨をやんわりと俺に伝えて会話を終了した。当然、直接開発室に出向いても無駄だった。大阪に行く前にそれをやっておくべきだったのだ。
「まぁそりゃそうだよな」
「俺自身も、あんまり会う気はしなかった。ただちょっと確認したいだけだったし」
「仮に『麻枝准』が俺たちをネタにしてたとしても、素直にそれを白状するわけないしな。相沢にしてはずいぶん短絡的に動いたな」
 それはお前がうっとりした顔で焚きつけたからだ、とは言いたくない。
「それに、もはやネタにしたとかそういうレベルの話じゃなくなってんだぜ。実際に32人の転校生が来たんだ」
「でも北川、『Kanon』も『ONE』もそれぞれ独立した世界だろ? なのに全員が同じ学校に転校してくるってのはおかしい」
「それ以前に、外見や性格や血縁関係とかそういうのも全部メチャクチャだ。名前しか一致してない。でも冗談でこんなことはできん。もし誰かの陰謀だとしても、『Key』作品の学生と同じ名前の高校二年生がこんなうまいこと存在しているとは思えないし、ましてやそれを同じ学校に同じ日に転校させるなんてことできるわけがない
 北川は恐ろしいことを口にするが、その言葉には恐れ慄く感情が全く含まれていない。俺は天満に行く前の北川を思い出した。
 北川は望んでいる。脳の一部を麻痺させて、『Kanon』の『北川潤』として振る舞えるように世界が出来上がっていくことに恍惚を覚えている。柔道部員の『美坂栞』に興奮している。北川の憧憬。北川が手にしてしまった『Kanon』が俺の手にまで運ばれて、俺のパソコンにブートされた『Kanon』のCDが回転してハードディスクの中に配置されていくテキスト/バイナリファイルの中に刻まれた画像と彼女たちの名前に……北川の見立てにとって都合のいいように人や街は上書きされていく。続いて『ONE』がブートされ『AIR』『CLANNAD』『MOON.』がブートされ……『Key』が世界にブートされていく。ブートしたのは誰だ? 北川の言葉「誰かの陰謀か、『神』の仕業か」……。『神』……それはやはり、

 『麻枝准』?

 俺たちの思考がいい感じに熟成して袋小路へたどり着いたのを待っていたようなタイミングで「バン!」と大きな音がして俺と北川は入り口を振り返る。乱暴に開かれたトイレのドアが壁に激突してもう一度音を響かせる間に、男がなだれ込んできた。
「何だお前は?」
「俺は『折原浩平』さ。『相沢祐一』くん」
 続いてゾロゾロと人がやってくる。男子便所なのに平然と女が入って来ていた。
 数えるまでもなく32人居る。
「俺たちは昨日この学校に転校して来てね。君は昨日居なかったね? 今日も昼休みになるまで来ていなかった。お陰で挨拶ができなくて困っていたよ」
 うんうんと全員で頷く。北川の顔に目をやると口を開いて呆けていたので、腹にパンチを入れる。
「こんにちは『相沢祐一』くん。同じクラスになったよ。仲良くしようね」
「あ……あたしも」
 『折原浩平』の後ろから女がふたり前に出て、俺の目を見てそう言った。
「『沢渡真琴』と『水瀬名雪』だ……」
 北川が呻く。
「あ、『北川』くんも同じクラスだよね。よろしくね」
「うん!」
 『沢渡真琴』がキラッと笑いながら北川にウインクすると、北川は見えない巨大な力にちぎられるように歪んだ変な笑顔で爽やかに返答した。
「俺は残念ながら違うクラスだけど、よろしく頼むな。ちょうど君の隣のクラスだから、会う機会も多いだろうね。新参の俺の方から言うことじゃないかもしれないが、仲良くしようじゃないか。あっと、そうだ。彼女も君に挨拶しないといけないんだったね。ほら、今言うといい」
 『折原浩平』がベラベラと喋るだけ喋って脇にスッと身を引くと、見慣れないやつらの中で唯一見知っていた顔の留美がおずおずと前にやって来た。
「ゆ、祐一、あのさ、えっと」
 留美はしきりに髪をいじったり制服の裾を捻ったりしていて目線もあちこち定まらず俺を見ていなくて落ち着かない様子だった。
「えっと、あのさ、何かお父さんがさ、女子高は偏ってるとか、何かその、いきなり言い出してさ、その、転校させられちゃってさ、あの、それでこの高校に来たんだけど、えっと」
「『七瀬留美』くんは俺と同じ1組だったね! それで『相沢祐一』くんは2組だったね! 『七瀬留美』くんは俺たちと一緒に転校して来たね! これも何かの縁だね! 仲良くしようじゃないか!」
 留美が内容が分かるような分からないような断片的な言葉を搾り出している最中だというのに、さっき場を譲って水道で意味もなく手を洗っていたはずの『折原浩平』が突然でかい声で横槍を入れたので、留美は泣き出してしまった。
「祐一ぃ……これって何なの? 意味分かんない……どうしてあたし、こんなとこに居るの? 何かのドッキリなの? 祐一がやったの? お父さんとお母さんに変なこと言ったの? 祐一がこの前言ってたことと関係あるの……? ねぇ、教えて……あたし、どうなっちゃうの……? この人たち、何なの……? 祐一の友達……? ねぇ……祐一ぃ……」
「泣かないで『七瀬』さん。私たち仲間じゃない。何か困ったことがあるんだったら、相談して? クラスメートじゃない」
「彼女は転校初日できっと緊張しているんだ! そうだよな『七瀬』くん!」
 誰か分からないが多分いずれ分かる転校生の女が優しい言葉をかけて『折原浩平』が檄を飛ばすと、膝をガクガクと震わせていた留美が遂に地面に突っ伏してヒックヒック始めてしまう。留美は櫨谷第一女子ではなくてうちの制服に身を包んでいて新鮮な感じでそんなこと言ってる場合じゃないんだけど俺も北川もそれを黙ってみていることしかできなかった。
「祐一ぃ……あたし、どうなっちゃうの……? ねぇ……『祐一』ぃ……」
 顔を伏して表情を見せない留美を見ることさえ何だか苦しくて、身体から何か抜けていくような妙な感覚が怖くて俺は視線を逸らす。個室のドアに貼りつけた『えいえんのせかい』が目に入ってまた慌てて視線を逸らす。
 仕方なく北川を見ると、北川は転校生軍団の中のデブ女を凝視している。あれがきっと『美坂栞』なんだろう。北川はまた呆けたように口を開けていたが、もう殴る気がしない。三十年後に居るはずの聡明な北川のイメージはもう靄がかっている。
 「キンコーン」と昼休みが終わるチャイムが鳴り、途端に転校生たちがゾロゾロと退出していく。『留美』は彼女らの何人かに両脇を抱えられて外に出て『北川』もそれにフラフラとついて行ってしまう。静かになった男子便所の中に一人残された俺は再び『えいえんのせかい』と書いた貼り紙に目をやる。個室の中で『麻枝准』が新作のデバッグをしている気がした。


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