アスリート


 町に出てスーパーに行って自分の部屋の切れてしまった蛍光灯の替えを買う為に最寄の停留所からバスへと乗り込んだ僕は、目に一番に飛び込んできた車内の光景を疑った。
 日曜の午前ということもあって混雑していることはもちろん予想していた。車窓からスシ詰めになっている人の顔が見えていて、バス内の人口密度の高さは明らかだった。しかしその時点でやっぱり少しおかしかった。進行方向に対して前半分、後ろ半分と分けるなら、前半分の窓はさながらラッシュアワーの電車のように人がひしめいているのが見えたのだが、後ろ半分には誰の顔も見えなかった。つまりやたら前の方に人が固まっていた。外からパッと見ただけでピンと来るおかしさだったので、僕はギョッとした。何だ? なんでそんなに前の方に固まってんの? 意味わかんねー。あ、乗車口は真ん中ちょい後ろにあるから、もしかして乗ってくる人に配慮してるとか? いやいや、それも不自然だ。一人や二人が気を利かせてくれてるならともかく、中でギュウギュウにおしくらまんじゅうしてる人みんながそんなことするのはおかしいだろう。大体、気を遣ってくれてるんだったら空けるのは別に入り口付近だけでいいじゃん。車内の半分はやり過ぎ。つーか後ろ、座席さえ空いてる。前で立ってる人、座れよ。何だ何だ?
 と思いながら乗って、絶句。乗客はみんな無言で前に集まってる。一番前の運転席見えない。よく見たら、一人がけの座席にも二人ぐらい窮屈そうに座ってる。席の上に複数人で立ってる奴らも居る。うお、上の荷物置く棚にも人が寝そべってるぞ。これもまた二人ぐらい折り重なったりしてる。どうなってんだ?
 とにかく空間を節約して節約して一人でも多く詰め込んでやるぞーという強烈な意志を観察していると、僕が今乗り込んできた扉がプシューと閉まる。僕は「あっ」と少し慌てる。異様な光景に気を取られて呆然としている間に退路を塞がれてしまった形になって、思わず不安を感じている僕。
 うーん、それにしても変だ。みんな一心に前を向いて無言。外を走っている別の車の走る音だとか屋外ならどこにでもある一定のデシベルとか、そういう音が窓ガラスを通して外から聞こえてくるけど、彼らは何も音を立てない。誰も咳払い一つしない。棚に寝ている人でさえ、前を見ている。それは何ていうか荘厳だった。彼らには日曜の教会で讃美歌を唄う信者たちのような敬虔さがあった。一人一人を見れば何てことないありふれた種類の人ばかりなのに。カバンを提げて背広を着た中背の男性、子供連れのドレスアップ過剰マダム、カップルらしき若い男女(一人がけの椅子に肩を組んで立っている!)、白髪で矮躯のお婆さん。新しく乗ってきた僕の方なんて見向きもしないで、ひたすら前を見つめている。でも多分、フロントガラスからの光景を望めているのは一番前に並んでいる人と運転手だけで、他の人は誰かの後頭部をどアップで見つめているだけだろうな。耳に息も吹きかけているかもしれない。
 その中に加わるつもりなんてまさか僕にあるわけないし、そうしようとしたところでスペースもなさそうだった。仕方なく僕は後ろの空いている席に向かおうとするが、僕は前の人々から視線を逸らすことができない。それは乗り込んでからずっとそうだった。もし僕が一瞬目を離した隙に彼らに何か変化があったらと思うと、彼らの監視を一秒たりともやめるわけにはいかなかったのである。おっかなびっくり僕もみんなと同じ進行方向を向きながら後ずさる。どうせなら一番後ろの席に座ろうと思った。降りるまではまだ数駅ある。
 じりじりと前を見ながら後退していた僕は、途中で何かにつまずいてしまう。
「うわっ」
 僕はそのまま後ろ向きに倒れた。全く無防備だったので「床で頭を打つ!」と僕は咄嗟に受け身を取ろうとして腕を横に伸ばしたが、「ガン!」と座席に当たって痛いだけだった。結局頭は打った。でも打ったのは床ではなかった。つまずいた感触は「グニャ」と弾力的で、おまけにヌルリとして変な感じだった。「うっ」という呻きも聞こえた。つまり僕がつまずいたのは、人間だったのだ。
 僕は少しの間仰向けに転がっていたが、自分がかぶさっている物がゴソゴソとうごめいているので慌てて立ち上がって振り返る。そこには汗まみれの若い男性アスリートが寝転んでいた。何なんだ?
「すみません」
 僕は反射的に謝ったが、心臓はバクバクと落ち着かない。アスリートは身体を起こして首を振りながら顰め面をして頭を掻いた。幸い僕は百貫デブではなかったのでアスリートにダメージはないようだった。
 アスリートはマラソン選手みたいなユニフォームを着て、達筆な文字で「搾取」と書かれたゼッケンをつけていた。意味は全く分からない。ガタイはよくて筋肉質で、マラソン選手というよりは砲丸投げという感じだ。
 それにしてもこのアスリートは何をしているのだろう? つまずいた時にヌルッと感じた湿っぽさはアスリートの汗だったのだ。アスリートと接した背中が、ベチャリとして不快だった。バスの中で寝転がって汗まみれで、陸上ユニフォームを着ているこの男は一体?
「よそ見するんじゃない!」
 僕の目を見てアスリートは文句を言った。でもそれは怒っているというよりは、「しょうがない奴だなぁ」って感じの笑いを含んだ爽やかな言い方だった。実際、アスリートは笑みを浮かべながらそれを言った。僕は相変わらず混乱して動悸が激しかったが、アスリートの笑みにちょっと安心したのか僕も笑みを作りながら「すみません」ともう一度言った。
 アスリートはそれ以上会話を続けるつもりはないらしく、また僕も必要を感じなかったので、僕はそそくさと一番後ろの座席に移動して座った。ここからは前の集団全体も見えるし、左右に目をやれば外の様子も見れるし、正体不明のアスリートも見えるので、僕は小さな全能感を感じた。いやそれは全能感というよりも、意味不明な状況に居ながらもその意味不明を構成する要素全てを同時に眺め、観察できる位置を確保したことによる安堵と言った方が正しい。僕はこのバスに関わって以来ようやく初めて人心地つくことができたわけである。
 それでも、今日バスの中で読もうと思ってカバンに入れて来た文庫本に手を出そうなどという気は全く起きなかった。何故なら目の前のアスリートがいきなり腹筋トレーニングを始めたからである。膝を曲げて脚を三角にして、腕は自分を抱き締めるように胸の前でクロスさせている。そしてピョコピョコと、上体を起こしては倒し、起こしては倒しを繰り返している。まごうことなき正統な腹筋トレーニングである。目の前でそんなことをされてゲーテが読めるわけがない。
 アスリートは掛け声を上げるわけでもなく、呼吸音もほとんど出していない。乗り込んでからつまずくまで僕がアスリートに気付かなかったところを見ると、もしかしたらずっと彼はこの腹筋トレーニングをしていたのかもしれない。呆然と乗客を見つめる僕の後ろで、アスリートは黙々と腹筋をしていたのだろう。恐るべき状況だ。アスリートが背中を起こすと、接地していた部分の床が汗で濡れて色が濃くなっていた。それはずっと運動を続けている証拠だ。
「…………」
 彼は一体何者なのだろう? そしてあの乗客たちは一体? (僕がアスリートに気を取られている間を除いて)僕の見る限り乗客たちは微動だにしなかったし、今もずっと押し黙ったまま進行方向を向いている。それ以外の行動を一切僕に見せようとしてくれない。途中で何度か停留所があったが、降りる人も乗る人も居なかったらしくバスはそのまま通過している。時折赤信号に遭うと減速して停車することだけが、この世界で唯一常識的だと思える事柄だった。アスリートはずっとパタ、トス、パタ、トス、背中と床で静かな音を立てて腹筋。その忠実な反復は、どこか前の乗客たちと似ているように思えた。
 僕がなし崩し的にアスリートの腹筋の回数を数え始めてからの通算310回目が終わると、アスリートはゆっくりと立ち上がった。走る道路の凹凸によってドドンと車体が大きく揺れたが、アスリートはよろめかなかった。乗客もよろめかない。立派なものだと思った。アスリートは肩をコキコキと鳴らし、腰を回して軽くストレッチをした。今度は何をするのだろう? と思って見守っていると、アスリートは正面ではなく横を向いて、両腕を肩幅に開いてそれぞれの手に吊り革を掴んだ。そして何と、体操選手よろしく身体を宙に持ち上げ始めた。段々と上がっていく身体、そして両脚を少しずつ開いていく。ゆっくりと時間をかけて、両脚は地面と平行の一直線を描いた。ピシリと張った筋肉がその直線を美しく際立たせるのを僕は見逃さなかった。普通の器械体操なら長ズボンでやるものだが、このアスリートは短パンである。隆々とした筋肉が赤裸々に晒され、僕はその美しさに魅せられざるを得なかった。さっき彼が僕に唯一放った「よそ見するんじゃない!」を僕は思い出していた。「よそ見するんじゃない!」は、彼が自分だけを見て欲しいという意志を表現したものとして僕の中に蘇っていた。汗を滴らせながら自己を鍛錬し、技を磨く。それは何て尊いことなんだろう。今なら乗客たちがバスの後部を空けておいた理由が分かる。彼らはアスリートに場所を提供したのだ。彼だけが持つ無二の美しさを誇る技を守りたいと願い、彼というアーティストの才能が更なる開花を果たすことをみんなが望んでいるから、彼が己を磨くことのできるスペースを提供したのだ。素晴らしき団結。僕は感動の涙を堪えるのに必死だった。
 彼は僕の熱い眼差しに気付いてかどうか、素早く吊り革を持つ手を組み替えて反対を向く。そしてまたふわりと浮かぶように身体を持ち上げて、今度は勢いよく脚を水平に伸ばす。乗客の最後尾に居た禿げ親爺の後頭部に、アスリートの爪先がゴスッと鈍い音を立てて当たった。


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