J・V・ノイマンに撃たれる前に
「やったぞ!」
広大な敷地であるにも関わらず、地上へ地下へと拡張された仲松研究所。
その一階、やはり所狭しと敷き詰められた多様な機械が並ぶ一室で、所の最高責任者である仲松所長の声が響き渡った。
「遂に完成だ!」
だがその絶叫を耳にしているのは実験室にいる二人、当の仲松と、残業中の下田所員だけである。
いや、残業というのには語弊があるかもしれない。というのも、今は朝と呼ぶには遅すぎる午前十時過ぎであり、二人とも昨日の夕方からずっと実験に没頭していて徹夜明けなのである。もはや通常業務の時間帯だ。
もっとも、いつ来ようと成果さえ上げれば構わないという自由な―――悪く言えば放任主義的な―――所の方針のため、所内の研究員は少ない。多くの所員は昼過ぎや夕方にやって来る。
「下田くん!」
「……何でしょうか」
「ちょっと来てくれないか!」
二人はたまたま同じ実験室で仕事をしていたというだけであり、別のプロジェクトを進めていたわけである。
自分の仕事を中断されたことに下田は不快感を覚えたが、日が昇ったことで集中力が切れてきたのと、所長直々の指示ということもあって、下田は大人しく仲松のところへ向かった。
「どうしたのですか」
「これを見たまえ!」
やって来た下田の愛想ない態度を全く気にすることなく、老所長は溌剌として、小さな機械を持った片手を掲げた。
「これは?」
下田の見たところ、それはヘッドフォンのような形状をした器具だった。恐らくは、現在仲松が取り組んでいる研究対象のそれなのであろう。そういえばさっき、プロトタイプメーカー(設計図を入力すると、機械類の試作品を作成できる工業設備)が動く音がしていたな、と下田は思い出した。寝不足の朝には堪える重低音だ。
「私の研究していたものだよ。先程、インターフェーステストを完了したところだ」
「何の研究です?」
下田は昔から仲松の研究によく関わっていたが、近頃は自分の仕事が忙しくなったために、仲松の最近のテーマをよく知らなかった。
要領を飲み込めずにいる下田に、仲松は飄々と答える。
「ふふ、他人の全てがわかる研究さ」
仲松が、机の上に乱雑に詰まれたケーブル類を驚くような速さで選り分け、計測器やら装置やらに挿し込んでいく。下田が脇に置かれた大きなホワイトボードに目をやると、そこには仲松の乱暴な字で『Consciousness Synchronous Apparatus(意識同調装置)』と書かれていた。
「抽象的ですね」
「ふむ。そうかね」
手を止め、仲松が再び下田に振り返る。
「下田くん。今の世の中は非常に便利になった。街を歩けばあらゆる所に虹彩スキャナが設置してある。人々の目をスキャンすれば、個人の識別が1人につき0.02秒以内には完了する。誰がどこに居て何をしたか、当局はリアルタイムに監視することができる。お陰で強盗、放火、レイプ、あらゆる犯罪が、この制度の施行前に比べてどこの国でも1/10以下にまで減少している。全国の地上75%、建造物まで含めば約40%をカバーできるところまで、今、我々はやって来ている」
「ええ、存じています」
日本、そして世界中のマスコミをして、空前絶後と呼ばしめる騒ぎをもたらしたこの『ヒューマンスキャニング』。原始には指紋に始まり、声紋、輪郭、動静脈、網膜、虹彩、あらゆる識別子を人間の中に見出し、それらによって個人の判別を可能にしようという試みである。
犯罪の抑制や国民の管理などを名分に、国際連合加盟国でこれらの機器を導入する条約が結ばれたのが五年前。民意をまとめ上げるのに最も手こずったアメリカでさえ、ものの三年ほどで調印した。マスコミにしても、どこからか圧力でもかかっていたものか、次第に支持よりの姿勢を作っていった。そんな中、ヒューマンスキャニング研究・施行の最前線、第一人者となっていたのが、まさにこの仲松なのである。
「さて、下田くん。通行人の名前、年齢、国籍、国民番号、住所、職業、血縁関係、健康状態、血圧さえも、我々はリアルタイムに知ることができる。アレルギー持ちの人間がアレルゲンの入った食物を手にすれば警告され、未成年が酒類を手にすることはほぼ不可能に近い。そんなシステムが当たり前の世の中になりつつあるのだ。……しかし、まだ我々にもわからないものがある。それが何かわかるかね?」
「いえ」
「心さ。他人の、心だよ」
「…………心、ですか」
下田はできる限り感情を込めないようにしてそう返答した。が、その胸の奥で燻っていたのは、仲松に対してかねてから抱いていた深い失望である。
かつて世界的に技術も未熟であり、倫理や費用、あらゆる問題がヒューマンスキャニングの不可能性を指し示していた十年前。そんな中で、仲松が恐ろしいほどの知識、技術、学術的センス、そして政治的手腕をもって、層のように厚く重なった困難な障害を次々と乗り越え、着々と実現に向かって駒を進めていくさまを、当時大学生であった下田は尊敬の念をもって見ていた。
下田は大学を卒業すると同時に、民間のソフトウェア企業を蹴って仲松の開く研究所へ押しかけた。そして眩暈がするほどの競争倍率を跳ね除け、見事、下田は仲松研究所員となったのだ。
だが、風聞誉れ高い実物をいざ前にしてみると、肥大した理想との差異に幻滅を覚える―――というようなことはそう珍しくなく、下田も多分に漏れなかった。
仲松は、社会的貢献―――とまでいかなくても、功名心であるとか―――や、知的探究心によって動いていたわけではなかった。
彼の原動力となっていたのは支配欲だった。自らの敷いた盤の上に権威が、金が、そして世界が次々と乗っていくのを大いに悦んだ。時折『いかに大衆を管理するか』『国民ランク制度』などの過激な題目でプレゼンを行ない、下田を驚かせたものだった。
もちろん衆目のある所では、仲松も人心を踏まえて振舞ったのであろう。少なくとも、世界中のマスコミを騙し切り、若き下田に憧れを植えつけるほどには。
だが仲松は、こと研究所内ではその情欲を隠そうとしなかった。恐らく、自分と同じ研究を志そうとやって来た秀才たちを、自分と同類だとでも思っていたのだろう。あるいは優れた理解者を得たかったのかもしれない。中でも取り分け仲松の研究を知ろうとした下田の目に、その弁舌や挙動は大層どす黒く映った。
勝手な思い込みであったとはいえ、裏切られたという気持ちは下田の中にあった畏敬をそのまま線対称に裏返した。だが同時に、仲松が誇る圧倒的な能力と戦略性が、ますます下田の心を惹きつけていったのも事実だった。
もう何度目になるかわからないその葛藤を、下田は静かに押さえつけた。
「今のところ、ヒューマンスキャニングシステムで対人において実施されているプロトコル(データ入出力の規格)は、クライアントである人の方から一方的に送信されてくるものに留まっている。つまり人に対して入力を行なうことは現状ではできない。現状では、な」
ニヤリと仲松は笑った。
「しかしそれは公式な実行においての話だ。運用中のスキャナの最新バージョンには、スキャンと同時にサブリミナリィデータ(潜在意識下に働きかける入力)をクライアントに送信できるシステムを組み込んでいる」
「それは本当ですか!」
下田は絶叫した。
「そんなこと、公になれば大問題だ!」
「落ち着きたまえ、下田くん。インターフェースは完全に未公開であるし、プロテクトは入念に噛ませてある」
「そういう問題ではないでしょう!」
下田は信じられない思いだった。予算幾兆円がかけられ、世界中の人々に適用されるシステムに、個人の独断でそのようなことをして許されるはずがない。また、それをいとも簡単に自分に教えることも、下田には信じられなかった。
「重大なセキュリティホールだ。悪用でもされれば……」
「私以外は存在も知らず、仕様もわからず、第一、アクセスできるのは各国の主要人物と公的機関だけだ。セキュリティホール? 私が幾重にも対策してあるその穴を、いったい誰が突くというのかね」
下田は言い返せなかった。
「話を戻そう。クライアントへのインプットに関してだが、いい例がある。船のエコーというのがあるだろう。音波を船底から発信し、その反響の結果で水中の様子を調査するというものだ」
「それを、対人に実行するということですか」
「例えば早朝、道で出会った近所の人に『おはよう』と言う。そこで笑顔で『おはようございます』と返ってくれば、『愛想のいい人だ』と人は記憶する。毎朝『おはようございます』と笑顔で返事をすれば、『愛想のいい人だ』が固定化され、人格化されるわけだ。だがそんな人が、ある朝は無言で素通りしたとしたら、『不機嫌だ』『何か嫌なことでもあったのだろうか』と推論できる」
「何気ないコミュニケーションが、実に打算的に聞こえますね」
「そうだ。人間は平素からそうして様々な方法で他人についてのデータを取得し、蓄積している」
「それを、ヒューマンスキャニングで行なうというのですね」
「主観的な横槍が入らない分、随分と正確だよ」
「いくら所長でも、それは無理でしょう」
悲劇的な馬鹿馬鹿しさだ、と下田は思った。
いくら多くのやり取りによってデータを取得できたとて、それを元に人格を仮想化するなんて馬鹿げている。しかしこの天才は、それを実現してのける。遠くからこの英雄を眺めていた頃でも、距離の縮まった今でも、仲松がそうしてあらゆることを成し遂げてきたのを、下田は知っていた。
「ところがそうでもないのだ。確かに完全にエミュレートすることは難しい。しかし考えてみたまえ。『人格』とは何だね?」
「それは私の専門外です」
「ならば聞きたまえ。実際の所『人格』とは、『意識』を伴って展開されるあらゆる行動に対する社会的な評価や認識のことだよ。例えば、君が所内で大きな実験資材を抱えて歩いていて、誰かが『手伝いましょうか』とでも助けてくれれば、『優しい』と評価される。一般的な話だよ。彼は難儀そうな君を見て、『手伝いましょうか』と発声、君の隣に駆け寄り、君の荷物を手に取る。この随意的行動のベクトルが『優しい』という評価の型に当てはまるわけだ。だがこの時、君に駆け寄る足が左から、あるいは右からである必要性があるか?」
下田は答えず黙っていた。
「そこに意味はない。『人格』というものを考える時、そういった微細な部分は影響を及ぼさないのだ。今のはほんの一例に過ぎんが、私の言わんとすることがわかるね?」
「……つまり、想像以上に分析の必要があるデータは少ないと?」
「そういうことだ。そもそも、全ての計算を機械に任せる必要はないのだよ。無理に『意識』や『人格』を無からエミュレートすることはない。観測者自身がエミュレータになれば済むことだ。エコーレスポンスで得たクライアントの反応を分析し、必要最低限のメタ情報を観測者に渡すことで、観測者に擬似的に対象の意識をトレースすることができる」
「無茶だ」
「無茶ではない。実際に私はこうしてシステムを完成させたのだ。これが観測者用の端末だ」
仲松はさっき下田に見せたヘッドフォン型端末を再び掲げた。さっきとは違って、仲松がつけた細いケーブルが伸びているが。
「自分で何度も試験したが、感覚器のシンクロはほとんど成功している」
「……それは、プライバシーの侵害には当たらないのですか」
上機嫌に話し続ける仲松を遮るように、俯いて下田は苦々しく言った。
今まで下田の様子など全く意に介さなかった仲松が、ここでようやく顔を顰めた。
「下田くん。この制度が正式に採択されてからもう五年が経つ。地域的施行を含めればもっと長い。今ではもう法律の中に組み込まれているほどだ。ところで君、こうした規模拡大のプロセスにおいて、一度でもこのプロジェクトの勢いが衰えたことがあったかね?」
「……いいえ」
下田は、わからないほどに小さく首を振った。
「それどころか、異常なほど順調だ。当初の私の見通しでは、世界的な採用はもう五年ほど先になっていたのだからな。今でも一部の者が論争などしているが、大多数の人間はこの制度に納得、あるいは順応して、特に不満を言っているわけでもない。事実、犯罪は激減して、生活の利便性は躍進的に向上したのだからな」
「それは―――」
「それも、私やそれに従事する研究者たち、あるいは世界のお偉方がその全てを掌握しているとわかった上で、だ。何故だ? 何故これほどに順調なのだと思うね?」
「わかりません」
仲松が口の端を吊り上げる。
「人々は、プライバシーなんてものはもう売ってしまったんだよ。便利さを買うために。売ったといっても、最も情報を渡したくないような身近な相手―――例えば家族や上司、恋人や友人、学校の先生、そんな奴らに筒抜けているのではない。どこか遠くの、見も知らぬインテリ達にだけだ。メリットとデメリットを天秤にかけ、ともすれば大切なものを我々に委譲したのだ。実に選民的な構造ではないか。役得というには特権的過ぎるが、しかし下田くん。私はそうして今、『誰をも弄ぶことのできる』立場に居るのだよ」
「所長、その発言は国際審議ものですよ」
「事実を述べたまでだ。我々にはいわゆる『全知全能』になる権利がある。後はそれを実現する技術だけが必要なのだ。下田くん。君も『そういうもの』を求めて、この研究所に来たのではないのかな?」
「僕はそんな―――」
反論したくなる衝動を、下田は懸命に抑えた。
「何、そう鯱張ることもない。そうだ、君、このマシンのテスターをしてみたまえ」
仲松が下田に端末を差し出す。
「危険はない。これは確実に保証できる。問題は意識同調だ。それをモニタリングして欲しいのだ。―――どうだ、世を掌握する研究に、加担したくはないかね」
下田は手渡された端末をじっと見つめた。荒削りの鉄片が蛍光灯の光を鈍く反射している。
こんなちっぽけなものが、その冒涜的な奇跡を与えてくれるというのか。それこそが、自分が幾年もの間毛嫌いしていた悪ではなかったか。だが、自分は『どうしてこの道を選んできたのだったか』。仲松に憧れて、猛勉強をして、そして自分は、何をしたかったか。ただ生ける伝説である偉人の傍らに居たかった、それだけの理由だったのだろうか。
暫くの時間を消費して、下田は短く答えた。
「……わかりました。モニタリングをやります」
「おお! そうか。では早速やってみたまえ。このタッチパネルで操作が可能だ」
耳に端末を装着し席に着くと、下田はすぐさまパネルを指で操作し始めた。その様子を見て、仲松は一際大きく口の端を吊り上げた。
「何なら最も遠い所に居る人間に試すといい。日本の裏側は……ブエノスアイレスか? そちらのデータベースにアクセスして人選をしてみたまえ。そして、我々にかかれば地球を網羅することも不可能ではないと知るがいい」
仲松が大声で笑いながら、満足そうに腕を組んだ。
下田は速やかにパネルの操作を終えると、手を離して目を閉じた。
数秒して、目の前にあるモニタに『SUCCESSFUL(同調成功)』のランプが点灯した。
「うまくいったようだな!」
仲松が嬉々とする。
「どうだね、下田くん。マルチチャンネル的に意識が確保されるようになっているから、意識が混濁することもないだろう。他人の意識を鮮明に感じ取りながら、自らの行動に支障を来たすこともない。それが実現されているという事実は、更なる将来的発展を示唆しているとは思わんか?」
目を閉じたまま動かない下田。
「何も禁忌を犯しているのではない。当然の権限だ。私が築いた理論の粋にはそれだけの価値があったということなのだ。君ほど優秀な人材が、それに気づいていないはずがない。だからこそこの研究所の戸を叩いたのだろう? 下田くん。私は君を高く買っているのだよ」
仲松は続ける。
「どうだ、下田くん。君は何を見た。何気ない日常を送る平凡な人間か? あるいは、確実に逃げられない監視があるにも関わらず犯罪を働く愚か者の心理を? もしかすれば、私のこの試みは心理学にも甚大な貢献と―――」
「暗い」
仲松の声を遮るように、下田が短く叫んだ。
「何だって?」
下田の言葉の唐突さに一瞬面食らった仲松だったが、意味をすぐに理解すると聞き返した。
「どういうことだ? 下田くん、同調は成功しなかったということかね」
「いいえ、成功しています」
下田がゆっくりと目を開き、装置を停止する。
緩慢な動作で耳の端末を外し、コトリと机上に置いた。
「成功していたのか? しかし、暗いとはどういう意味だね?」
「所長」
下田は立ち上がって、椅子に着いていた仲松の所まで歩いてくると、白衣の懐から封筒を取り出した。
「これを」
差し出された封筒の表には『辞表』の文字。
「……どういうことだね」
今度こそ仲松は面食らった。
「所長。僕は今まであなたのことを慕ってここまで来ました。あなたが人間科学を研究していながら、その実、意図して人々のことを慮らないその姿勢に内心で対立しながらも、その偉業の眩しさを思えば許される傲慢なのかもしれないと思いながら、あなたの後をついて来ました」
呆けたように口を開いていた仲松が、その言葉で滑稽な表情を指摘されたかのように慌てて口を結んだ。
「所長が評価してくださったように、僕は科学者として信じるものを持っていいほどの功績も残してきたつもりです。プライドだってある。だからこそこれまで、同じ科学者である所長の姿勢に表立って疑義を差し挟むことはしませんでした」
「この紙切れは、君の懐刀のつもりかね?」
「辞表はいつも携帯していました。あなたに呑まれるまいという護符のような意味合いだった。つまらない儀式でしょう。しかしそれがこうして実際に意味を持つ時というのは、ひどく皮肉的ですね」
面白くなさそうに鼻を鳴らし、仲松は下田をだるく見つめ返す。
「あなたの考え方を理解するには、僕は若過ぎるのかもしれません。優れた者の自覚した優越が、封建主義が、世の中を円滑に回すのかもしれない。その上位としてあなたは適格しているのかもしれない」
そこまで言い切ると、下田は睨むように仲松を見た。
「しかし今日、はっきりしました。僕はあなたの思想を、信念を到底理解することはできない。その王制は、人々から隠匿しながら行なわれなければならないものですか? たまらなく暗い。所長。僕はあなたと『同調』することはできない」
「君、まさか、私を観たのか?」
「仲松所長、あなたは僕にとって何よりも大きな存在でした。そして誰よりも僕から遠い場所にいる人でしたよ。ブエノスアイレスよりもね」
いつまでも受け取られない封筒を床に投げ捨て、下田は実験室を退出した。