カンカンと階段を上り、コンコンと廊下を歩く。いかにも金のかかってなさそうな薄い床板と、どす黒い斑点のついた醜いコンクリートの壁。費用をできる限り抑えた建築業者のプランニングを、大家が生返事で承諾した末に出来上がったような、粗末な建物だった。
 その粗末な建物に私は住んでいる。もちろん、その粗末さに見合うだけ家賃は安くなっているし、通っている大学ともそれほど距離が離れているわけでもない。近くにコンビニもあるし、スーパーマーケットも一応ある。マイナーだが私鉄も通っていて、街には出やすい。あとは食事処と電気店でもあれば不自由はないが、それは流石に地方の辺鄙へんぴで求められるものではないだろう。総じて、特に不満は持っていなかった。
 二階建ての二階、その一番奥に私の部屋はある。最奥というのは割に気楽だ。理屈からして、うちに用事のある者しか家の前に現れることはない。廊下に窓のある設計の場合、夏場は通風とプライバシーの両天秤が多くの居住者を悩ませることになるのだが、位置的条件のお陰でそんな苦心は随分と軽減される。
 逆に言えば、全ての二階の居住者は、私に通りすがられることになる。別に率先して人の家の窓を覗き込む趣味はないが、自然に歩いていれば嫌でも目に入るものだ。通常の生活をしているならその往来は決して少なくなく、結果、比較的頻繁に彼らの安寧は脅かされることになるのだろう。
 一階につき四戸、二階あるので合計八戸である。隣近所の住人と懇意というわけでもないが、どんな人間が住んでいるのかは大体知っている。一階はどうだか分からないが、この階に住んでいるのは全員、同じ大学の学生だ。
 何とはなしに、視線を壁面へ向ける。最も手前の戸、その次の戸は、窓が閉まっていた。恐らく留守だろう。今日は平日で、前期終了直前の試験期間中なのである。私も昼前に必修科目の試験が終わり、昼食を済ませてから帰宅してきた所なのだ。明日の試験に備えて、勉強しなくてはいけない。
 ああ、もしかしたらこの二戸の家主も、クーラーを入れて勉強をしている所のかもしれない。今日は真夏日と、朝番組のキャスターが顔を顰めていたのを思い出す。私も早く部屋に戻って涼みたいものだ――――そう思いながら、少しだけ足を速めた。
 が、三戸目、私の隣の家を見て、唖然とした。
 その窓は、大きく開かれていた。いや、それだけならば何の不自然でもないのだが、それは、全開になっていたのである。
 この猛暑、少しでも風通しをよくしようとすれば、世間体を顧みず大胆に開放するのも仕方がないことだ。その中を暴かれ得る人間が、奥に住む私と、それを尋ねる来訪者にほとんど限られているのだから、それほどのリスクを孕んでいるとは考えずともよいだろう。
 だが、それならば網戸まで開く必要はない。今は真夏である。虫の活動も盛んな時期だ。網戸が最大限にその効果を発揮すべき時に、皮肉さえ感じるほどそれは姿を見せず、ただガラスと共に邪魔者のように重ねられているだけだ。これでは家の中が蚊や鱗翅りんしの類が入り放題である。
 事実、不快な軌道を描いて飛ぶ意志なき採血者たちが、悪ふざけのように窓枠を行き来するのを視認した。
 留守なのだろうか……? 好奇心の導くままに、視線を秘め所へ向かわせる。白昼だというのに、中は異様に暗い。私がそろりと覗き見るこの窓だけが唯一の採光口であるようで、手前のダイニングは元より、奥の部屋もカーテンを閉めているのかうすぼんやりとしている。どちら側からも開かれて真ん中に集まっているふすまに遮られて、その仔細は判然としない。ゴウゴウと無機質な音を立てているのは、あの無骨で巨大な冷蔵庫のものだろうか――――。
 そこまで観察して、自分の下品で不躾な行為に気付き、慌てて首を引っ込める。時間にして数秒も経ってはいまい。が、覗き見を随意的に行なってしまった背徳感が、倫理のバックボーンを背負って私を苛んだ。ポケットに手を差し入れ、逃げ出そうとするように鍵を探った。



 不意に小腹が空き、時計を見た。夜のとばりが下りてから随分と経つ。夕食は簡単にパスタを茹でて済ませたが、今は試験をクリアするための知識をひたすらに詰め込む作業に活力を消費している。程なくして日付が変わろうという頃合だった。
 冷蔵庫を開いた。淡いオレンジの光に照らされた中を、凝然と走査する。…………。閉じる。財布を手にし、ティーシャツとハーフパンツを素早く身に纏う。卵一個で何の滋養となろうか。
 サンダルを突っかけた瞬間、ピピ、と台所の置時計が小さく短い電子音を鳴らした。滞りなく、明日が今日に世襲したことを知った。

 扉を開いて、顔をしかめた。
 闇を下品に塗り替える、人工の光。真上に吊るされ、高速に点滅を繰り返す蛍光灯が目を灼く。誘蛾灯ゆうがとうでもないくせに、虫たちを収集したがる存在が不快だった。視界の助けなどという利点は、もはや差し引かれてなお足りない。
 直ちにドアを閉め、施錠する。そして行くべき道をはたと見つめ、私はまたしても慄然りつぜんとした。
 昼間見たきりの開放された隣家の窓は、この夜中においてなおそのままであった。
 雑木林が近いためか、あるいは田舎である特性なのか、虫の量は異様に多い。そして同じく異様に開け放たれた窓が、その真横にある。総じて異様だった。
 妙な焦燥感を抱く。あまりに平然と佇立ちょりつしている非常事態を、倫理観が我が危機と錯覚させたのかもしれない。
 飛び交う虫になるべく触れないよう、そろりと距離を詰め、炯々けいけいと窓を覗いた。
 当然だろうが、家主は留守だった。ようとして中の様子は見えない。が、恐らくは昼に見た光景そのままを当てはめて構わないのだろう。ぼんやりと光を跳ね返す白いふすまが、輪郭をうっすらと示していた。
 夜の魔力か、猫をも殺す好奇心か、私はすっかり眈々たんたんと見入っていたらしい。だが又候またぞろ、私は顔をしかめた。微かな腐臭が鼻を突いたのだ。虫が多いのは、この所為せいか……? ――――もはや侵犯ともいえる過剰な観察に、しかし罪悪感は伴わなかった。
 ブン――――と一匹の蚊が生理的嫌悪を引き起こす音を立てて私の鼻先をよぎり、反射的に私は身を引いた。肘の骨が反対側の壁に当たり、がん、と固い音を立てた。
 地味な色をした蛾が窓の闇へと消えて行った。戦慄しながらそれを認め、私は薄ら寒い灰色をしたコンクリートの廊下を逃げるように走り去った。

 思えば、あの隣人は前々から逸脱していた。夜中だというのに大音量で音楽を鳴らし、階下の住人から苦情を言われていたらしいと聞いたことがあった。週末の夜には大勢の人を家に上がりこませ、これまた大声で宴に興じていたこともあった。直接出会ったことはないが、周囲の目を気にしない性格なのだろうと解釈していた。
 あるいは、それは防音など全く考慮されていない設計に問題があるのかもしれなかった。この建物は、隣接しているかを問わずに音――生活音までも――がよく響く。幸い私に騒音を好む趣味はなかったから、周辺の怒りを買わずに今日まで平穏に過ごすことが出来ている。だが音楽狂だったり、独言癖がある人間なら、彼のようにやっかまれたかもしれない。安アパート住まいも、謙虚でなければ上手く務まらないものだ。
 隣人の彼がいずれに該当するかと考えれば、しかし前者ではあるまいか。私にはとても直談判に向かう勇気はないが、当然、被害を受けなかったわけではなく、程度は知っている。いくら傍若無人とはいえ、その振舞いは確かに度を過ぎている節があった。
 そういった経緯を思い出せば、あの異様な光景は不可解とまではいかないのではないかという結論になる。衆目を気にかけない杜撰ずさんな性格がよろずのことに適用されているのであれば、窓の一つも全開にして外出したところで一向に不思議ではないからだ。その杜撰ずさんさをさらに発揮し、何かの食べ残しなどを放置することで虫たちの温床を提供するような事態は流石に勘弁願いたいところであるが。
 しかし、その結論へのアンチテーゼとしての疑問も浮かび上がる。仮に、開け放しの状態を潔しとして出発した、あるいは、事前に開け放っていて、外出時にそれに気づかずに出てしまったのだとしよう。
 ならば、彼はいったい
 いくら換気を目的にしたといっても、全てを開ける必要はない。空気の通り道さえ構築できればいいのであって、断じて
 様々な可能性が去来する。ガラスと網戸の二重扉をり分けて開くことさえも億劫だったのかもしれない。来客の受け答えを窓越しにしたのかもしれない。
 コンビニの帰り道。思考の渦に巻かれながら、アパートの階段を上る。目まぐるしく点滅する蛍光灯。安っぽい足音を立てて、廊下を歩く。一歩、二歩。安息たる私の部屋の手前に、禍々まがまがしく口を開く暗黒の顎門あぎと。三歩、四歩。――――やがて、と再三の対峙を果たした。
 相変わらず、虫が渦巻いている。まるで内部から虫が湧き出ているかのようでさえある。瘴気しょうきが満ちているかのように、そのさまは禍々しい。
 この緊張を、この忌むべきカオスに終焉を迎えさせる方法は、実は明瞭だ。閉じてしまえばよい。たったそれだけで、秩序は回復し、平時の営みが姿を取り戻す。
 だが、そこは他人の領分である。私のそれではない。彼を叱りつける近隣の住人たちのそれでもないだろう。ここに住む、今は居ない主が統治する場所である。だから、その内部要素たるそれを、部外者たる私が再配列してしまって、果たしてよいのだろうか。
 それは葛藤である。見様によっては、勝手な美観への欲求が、彼の行使している自由の権利を簒奪さんだつすることにもなり得る。さながら、家族が録画予約をしたビデオデッキをいじってしまうような不穏当な気配が、私を圧迫した。
 吸い込まれるような黒の洞穴を凝視する。異様である。この光景は、この禍根は。詰め込み覚えた英単語など、全て吹き飛んでしまった。私もまた、異様である。拘泥してしまうこの気持ちの正体は、何だろうか。この異常さを発見した立場の唯一性によるものか。いや、私以外にも発見に至った人が居たのかもしれない。しかしそうだとしても、彼はそれを看過したということだ。この物々しい魔界の扉は、今この場で、私の手で、いとも容易たやすく終わらせてしまうことができる。高揚する。凡百ぼんぴゃくの凡人であった私が、救世主メシアとなる権利を手に出来るというのだ。大層、素敵な提案ではないか。
 手を伸ばす。侵犯する意志を具現する。興奮する。中から、現行犯を捕縛する手が伸びてくるかもしれない。恐怖する。狂気が渦巻く。それは瞬発力としての狂気だ。今、私の行なう日常的な動作が、私を昇華する。
 プラスチックが摩擦を拒むけたたましい音が静寂の闇夜に響き、窓ガラスと一体化していた網の戸が引き摺り出される。そしてそれが本来の役割を再獲得した時、私は歓喜した。
 只今、侵略は全うされたのだ。心躍る。使命は為されたのだ。断絶された向こう側の世界を追悼する。もはやこの世界から打ち捨てられ、疎外されてしまった哀れな空間よ。一片の慈悲も傾けてやれなかったことを、軽率にも後悔した。油断の許されない壮大な責務の最中に、間隙を作ることがあってはならない。
 だが決着のついた勝利の余裕、慢心を咎めることが出来るのは、その偉業を成し遂げた私だけである。特権的な感情が私を充足する。浮遊感の中で、五感が一層鋭利になる。得も知れぬ全能感に包まれているのだ、私は!
 だからこそ、それははっきりと見えた。あつらえたようにピッタリと中央に、引き出された網戸に貼り付けられた白く四角い張り紙を。
 それには横書きでこう記されていた。

『大馬鹿どもへ。
 さようなら、使い捨ての宿』

 無機質の光で局所を照らす電灯が、張り紙の白さを危ういものへと変貌させている。僅かに頭を傾げ、その文字列を熟読し、反芻する。隣人の張り紙を、置き手紙を、捨て台詞を考察する。

 馬鹿馬鹿しい緊張を脱ぎ捨て、ポケットの中の鍵を手探った。


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