requiem for the girl
★1日目
春から夏へ、季節が変化していく。暖かで過ごしやすい時期を越え、容赦なく太陽が照りつける、あの灼熱の夏へ俺たちは進んでいく。
窓から眺めた景色もそのことを物語っていた。桜色だった木々は一斉にその栄華を地に落とし、力強い青さを漲らせた葉と太い枝を掲げて、やがて来る夏の昆虫たちを迎えるべくその準備を進めている。
――柄にもなく、感慨に耽ってしまった。窓際の席に座るといつもこうなってしまう。
「風峰ぇ」
空想にふわふわと揺蕩う俺の意識を引き戻すのは、俺の名を呼ぶ声。その声はもちろん、聞き慣れたクラスメイトのそれだ。
「か・ぜ・み・ね・しゅーやクン?どうしました、こんなトコであさっての方見ちゃって」
振り向いて教室の中を見ると、やはり声の主は室見俊だった。
「どーもしねーって」
適当に返事をする。変に応答して揶揄されると厄介だ。
「なんだよ、ロマンチックに外なんか見やがって。なんか詩の創作でも始めたか?」
「違う。お前、俺が外見てるのがそんなに珍しいか?」
「まー、明らかに秋也は文科系じゃないからな。変なもん拾い食いでもしたという予想に到達するには難くない」
「ほう……」
と、いつもならここから反論してるトコだが、今日はやめておく。
「お……? ホントになんか拾い食いしたか?」
「違う。これ以上相手するのが面倒なだけだ」
いつもの冗談以上でも以下でもない会話だったが、本当に俺はあまり体調が良くなかったので放置することにしたのだ。
「……ふん、まぁ身体は大事にしろよ」
「そっちこそ珍しいな、俺の心配なんかするとは。お前こそなんか変なもん食ったんじゃねぇのか?」
「前言撤回、やっぱいつも通りだな。詩は完成したら見せてくれよ。俺の握る情報網を駆使して広報してやるからな」
「そいつはありがたい。ついでにお前の過去の恥ずかしい写真も同封しておくから、一緒に広めてくれ」
「ああ、期待してるぞ」
何てことのない、昼休みの一片だった。
「ただいま」
家のドアを開ける。俺は学校から電車で一駅という、通学苦からは縁遠い理想的な環境に居住している。駅まで歩いて五分、一戸建て築十年。ビバ、マイホーム。
「おかえり」
すぐに台所に向かうと、いつも通り母さんが夕飯の支度をしていた。
まだ時刻は四時半。夕飯まで大分時間があるし、一眠りしたいところだ。
「……今日はなんか体調悪いから、ちょっと寝てくる」
「大丈夫?」
「まぁ……気分が悪くなったら薬飲むよ」
「そう。分かった」
断ってから、二階の自室に向かった。
鞄をフローリングの床に放り出し、制服姿のままドカッとベッドに寝転がった。
「ふぅーーー」
伸びをする。制服の上のボタンを二つ外し、天井を見つめた。
「疲れた……」
ため息を吐く。身体中がギシギシと、油の注されていないロボットのような感覚に支配されている。
最近、妙な疲労感を感じる。特に激しい運動もしていないし(部活には一切入ってない)、無茶な姿勢を続けたわけでもない。それにも関わらず、一日中疲れが身体に溜まっているような気がして、すぐに眠くなってしまう。精神的な疲れなのかもしれないが、俺自身に心当たりはない。ああ、全くどうかしてる。
シャキッと覚醒すべく、大声を張り上げてみる。
「俺の名は風峰秋也。どこにでも居るような凡人で、高校二年生だ。特技はなく、趣味は寝ること。学校の成績はいつもトップクラスだ。下から。好きな食べ物はとんこつラーメン、嫌いな食べ物は納豆だ。靴のサイズは二十七センチ」
ここまで言って、自分がアホらしく思えてきたのでやめた。好きな食べ物、嫌いな食べ物の後に靴のサイズを持ってくる辺り、やっぱり俺はどうかしてる。
「こういう時は寝るに限る」
そう自分に言い放つと、面白いくらいすぐに眠気がやって来た。
★2日目
チュンチュン、と鳥が囀る声が聞こえる。もう朝か……。
うっすらと目を開ける。飛び込んでくるのは不規則な斑点模様がついた天井。見慣れた目覚めの風景だ。いつもの通り、いつもの朝。
「ふぁ〜〜〜今日はやけに早く目が覚めたな……ん、快調快調」
これで疲れも吹っ飛んだか。ちょっとだるい気もするが、それは寝起きゆえの一過性のものということにしよう。いやはや願ったり叶ったり。今日からはパワフル秋也でお送り致します。
「……あれ?」
パジャマを脱ごうと胸元に手を伸ばすと、何故か制服を着ていることに気づいた。
「気が早いな俺」
違う。おかしい。考えてみよう。朝目覚めたら制服を着ていました、これ如何に。昨日の俺はやけにハイだったんだな。
あれ……? そういえば昨日の晩って俺は何をしてたっけ?記憶を掘り返してみても、昨日の晩が出てこない。一週間前の夕飯でも覚えている記憶力がウリの俺なのに、昨日のことすら思い出せないとは……耄碌したもんだ。歳は取りたくない。
「って……昨日の夕飯も覚えてない……」
そういえば昨日は帰って何をしたっけ……? 記憶を掘り返してみる。おお、これはすぐに出てきた。昨日はすぐに帰路につき、電車に乗った。いつものように定期を使って、駅を出る。五分ほど歩いて築十年の家に到着。うむ、ここまでは鮮明だ。
ドアを開けて家に入り、台所に顔を出す。母さんと幾らか言葉を交わして、部屋に向かって一眠り……。
「……もしかして、あれから今まで寝てたのか」
それしか考えられなかった。
「ありえん……」
疲労が回復したと思った矢先、実はもっと深刻になっていたらしい。
「ありえーーーーん」
夕方から朝までぶっ通しで寝るなんて並大抵じゃない。
「しかも……もう八時じゃねぇか……!遅刻だ!」
今日は一時間目から移動教室だったはずだ。こうしちゃ居れん。
今日はとんでもない一日のスタートを切ってしまった。始業ギリギリで教室に駆け込み、鞄を自分の机に投げ置いて移動先の教室に走る。何とか間に合った俺は席につき、乱れた息を整えながら、チャイムを聞いた。
授業が始まる。いつもの通り先生が黒板に文字を連ねる。
しかし、今日みたいなことは初めてだ。前の夕方に一眠りするといって眠り次の朝まで目覚めないなんて、俺の人生十七年に前例はない。さらに俺は、母さんが夕飯の時間になって俺を起こしに来ても、起きなかったらしい。ここまで来るともう重症だ。プライベートも何もあったもんじゃない。まさに家は寝に帰るだけ、って奴だ。
さらに凄まじいことに、それだけ睡眠をとっても疲労感が抜けていない。幾分か昨日よりは楽になっているものの、身の重さはそんなに変わってない。朝に感じた気だるさはやはり本物だったのだ。俺は病気にかかってしまったのだろうか。
危惧しつつ、黒板の文字をノートに書き写して時間を潰した。
昼休み、いつものようにクラスの男ども何人かと食堂で昼飯を食べて、教室に帰って談笑する。
次々と流転する話題は、ふと気になる題目になった。
「そういや、最近学校で怪我人が急増してるらしいぜ」
「怪我人?」
「あ、聞いたことあるねそれ。なんでも今月に入ってもう十人が結構重い怪我したとか」
「問題児が喧嘩でも振りまいてるのか?」
「いや、それがどうも、全部人災じゃないらしい」
「つまり事故が多発してるのか」
「そうそう。今日も三年の男が、いきなり倒れてきたドアの下敷きになったそうだよ」
「いきなり倒れてきたドアぁ?」
机にあぐらをかいて座っていた俊も、素っ頓狂な声をあげる。
「怖ぇ……」
「教室の後のドアだろ? あんなもん倒れて来るのか……?」
「誰かが倒したんじゃねぇ?」
「周りには誰も居なかったそうだ」
「時限爆弾みたいに仕掛けをしたとか?」
「それこそありえねぇ……」
「偶然だろ……」
「だとしたら、呪われてるよな……」
「全くだ」
そんなことが起こってるなんて知らなかった。この分だと、今日明日にでも教師側から生徒向けに注意が来るだろう。
それにしても気になる。この手の出来事は大体が生徒の悪戯なのだが、今回のことに関しては妙だ。生徒の悪戯にしては周到過ぎるし、残忍過ぎる。手間のかかりそうなトリックを仕込んでまでこの現状を作り上げて愉しんでいる生徒が居るとしたら、それはとても脅威だ。且つ、手口によるとそいつは恐ろしく頭が切れるに違いない。想像したくないもんだ。一連の事故が偶然の産物だったとしても、それはそれでまた恐ろしいものがある。
他愛ない会話に少しの不安を添加し、俺はそれを記憶の沼の中へと沈めた。
今日一日の授業が全て終了した。達成感より先にやはり、例の疲れが押し寄せて来た。しかし教室で眠るわけにはいかない。このまま寝ると、冗談抜きで今度は教室で一晩を過ごすことになるかもしれない。そんなのはご免だ。今日もさっさと家に帰るとしよう。
クラスメイトに声を掛けて、俺は教室を出た。
すると、そこには明らかに俺の方を凝視している女の子が廊下に立っていた。背格好は、百八十センチの俺より十センチほど小さいだろうか。端整な顔立ちだが、無表情で冷淡そうだった。ふと、笑うと可愛いかな、なんて場に不相応なことを考えてしまった。
視線に敵意はないが、鋭さを感じるそれで、俺は思わず足を止めてたじろいだ。学年章を見る限り、ここの一年生だろう。見知らぬ少女のただならぬ様子に、俺はとりあえず閉口して相手の出方を待つ他なかった。
「――――」
「――――」
視線が合ったまま、場は膠着する。俺は時折、気圧されて視線を外すが、女の子はずっと俺を凝視している。もっと穏やかなそれなら、女の子からそういう視線を受けるのは歓迎なのだが……。
「俺に、何か用?」
耐え切れずに俺は口を開いた。緊張があるのか、予想より大きな声が出てしまった。
その毅然たる態度に変化はなかった。しかし俺の言葉を聞くなり、女の子は俺から視線を外し、小さな声でゆっくりと話し出した。
「貴方、この学年の二年生ですよね」
「ああ、二年の教室から出てきたのを見れば分かるように、俺は二年だ」
「……貴方、今学校で何が起きてるか知ってますか?」
「学校……? 事件か何かか?」
「そうです。学校で深い怪我する人が、増えてる話」
「ある。今日聞いたばっかだけど」
何だ? 話が見えない。愛の告白でもなさそうだし、恨まれるような心当たりもないし、法に抵触するようなこともした覚えもない。皆目見当がつかなかった。
「その原因は、貴方なんです」
「……はい?」
「今起こってる一連の事件の原因は、貴方です」
……絶句。
頭がどうかしそうだ。
いきなり教室の前で待ち伏せしていた下級生の女の子から、険悪な眼差しで凝視された末に言われたことは、“凶悪事件の根源はお前だ!”
「……帰れ」
「本当のことです。貴方は自覚がないかもしれないけれど、これは曲げようのない事実です」
「ああ、分かった。俺は急用があるんだよ。そこをどいてくれ」
相手にしないが吉だろう。こんなことに時間を食うのも癪だ。
「…………」
冷淡に言い放つと、女の子は少しの間をおいてその場所をどいた。俺はその脇を抜けて、下に行くべく階段へ向かった。
すれ違いざまに見た表情には、最初の冷淡さはなく、むしろ縋るようなそれだった――ような気がした。
廊下を曲がるまで、背中に女の子の視線が刺さっているのを感じた。
いつものように家に着く。特に何てことはない一日だった。今日の出来事で特筆すべきことといえば、やはり例の昼休みの話題と、放課後の女の子のことだろう。
確かに最近、俺や俺の周りには異変が多い。原因不明の体調不良、学校の怪我人続出事件、そしてあの女の子。何か不穏なものを感じずには居られない。
オカルトはあまり信じない方だが、やはり呪われているのだろうか。どこかの呪詛師が俺の写真を藁人形に貼り付け、夜な夜な五寸釘を打ち込んでいるのかもしれない。迷惑な話だ。これが杞憂に終わればいいのだが。
解決を図ろうにも、いくら寝ても抜けない疲労に苛まれて体調が優れない今、何か行動を起こすことも出来ない。というか、何をすれば解決へ近づくのかということすらも分からない。
お手上げだ。さてこの俺、風峰秋也、為す術がない現状であろうと、白旗を揚げて手を拱いているだけが能ではあるまい!どうする!
結論までの所要時間は一秒。ふ……こういう時は……寝るに限る!!
――そしてまた、十数時間もぶっ通しで寝る羽目になってしまったのだった。
★3日目
いつものように目覚める。……いや、こんな朝の迎え方はまだ二回しか経験がない。しかし今日は昨日とは違う。予め制服を脱ぎ、風呂にも入って歯も磨いて布団に入ったのだ。うーん、完璧。異常なくらい睡眠をとる俺に、両親も心配してくれているようだが、単に寝過ぎなだけだし気にすることもないだろう。うむ、俺ってかなり前向き思考。
もちろん学校の用意も既に済ませてある。ふふふ、余裕を持った登校も可能。完璧過ぎる。
さて、時計を確認する……。うむ、八時だ。朝飯でも食ってゆったりと……ってあれ?
「八時!?」
遅刻デッドゾーンに突入する頃合じゃないか。余裕も何もあったもんじゃない。
「くそ……狙ってこの時間に起きてるんじゃねぇのか……俺」
あれだけ早く寝てこのだるさで、こんな切迫した朝の状況なんて、理不尽過ぎる。これはそろそろ本腰入れて解決に向かわないとやばい気がする。医者に診てもらうか……。
テキパキと最短速度で支度を済ませ(言っておくが俺は遅刻常習犯ではない。だから最短速度で準備なんかをする必要も今まではなかったのだ)、家を飛び出す。また今朝も朝食を抜いちまったな……。
教室に入ると、様子が変だった。始業数十秒前だというのに皆は席にもつかず、あちこちで騒然としている。時間にうるさいはずの担任もまだ姿を見せていなかった。
不思議に思いながら自分の席に鞄を置き、近くで談合している男どもの群れに向かう。
「一体何だ? この騒ぎは。先生も来てないみたいだけど」
疑問を投げかけると、答えはすぐに返ってきた。
「室見が、病院に運ばれたらしい」
「俊が? なんで?」
思わず反問する。
「階段から落ちたってさ」
「階段から……あいつが?」
俊の席を見る。教室中央にあるその席には、もちろん座っている者は居なかった。
「あいつって登校するの早いだろ?バスケ部の朝練があるから。それで朝練に行く時に、教室に鞄を置いてから行こうとして南側の階段を上ってたら足を踏み外したらしい」
「らしくねぇよな」
「でも、階段を上ってて足を踏み外したってことは、前に倒れたんじゃねぇの?鼻の骨を折ったのか?」
「それがな、後ろに倒れたらしい。階段の低い方に、仰向けに」
「普通、そんな倒れ方って、するもんなのか……?」
俺たちの間に沈黙が影を落とす。
「……気味悪ぃ」
「室見がやられるとなると……」
「あいつ、運動神経いいよな」
「階段から落ちるとか、マジでらしくねぇ……」
確かに俊はふざけた奴だが、階段から落ちるようなドジなキャラじゃない。一体どうしたってんだ……。
さっきの『やられる』という表現がもう、俺たちの間に偶然では済まされない現実として事件が認識されていることを物語っていた。
そこに、担任がやって来た。
「静かに。席につきなさい」
ピシャリと担任がそう言うと、皆はガタガタと大人しく席に戻った。
「ホームルームが遅れて悪かった。一部はもう知っているかもしれないが、室見が今朝、登校の際に怪我をした」
ほとんどの生徒はそれを知っていただろうが、それでも教室内がどよめく。担任はもう諌めても無駄だと思ったのか注意せず、それに負けじと声を張り上げて続けた。
「頭を打っていたので危険かもしれないと、救急車で病院に行った。私も同行した。室見の意識はハッキリしているが、精密検査を受けるということでまだ病院に居る。恐らくは入院という形になるだろう」
なるほど。噂は真実だったらしい。さすが自称鋼鉄のナイスガイというだけある(ナイスガイはどうか知らんが)。頑丈な奴だ。
キーンコーンカーンコーン……。
「ではこれで終わる」
そう宣言すると、まだざわめく教室を尻目に、担任は教室を出た。ほとんど時間の終わり間際に担任が来たので、かなり短いホームルームだった。それでも授業は当然いつも通りに行われる。担任と入れ替わるように、一時間目の教科担当の教師がやって来て教壇に上がった――。
一日が終わる。今日の欠席は室見だけ。最後列のこの席から俊の席を見る。
事故当日、早々だが俺は俊の見舞いに行くことにした。疲労感云々と言っている場合ではない。大体疲労感なんていつ治るものかすら分からないのだから、時期を図るだけ無駄ってもんだ。
担任から病院名は聞いている。見舞いに行くことについての反対もなかったことから、大事ではなかったのだろう。むしろ担任は行くことを推奨しているようだった。とりあえず一安心だ。
そう思いながら鞄を背負い教室を出ると、そこには昨日と同じ光景があった。
また例の女の子だった。
「何だ、また君か」
「…………」
「俺は忙しいんだ」
「…………」
「訳の分からないことで時間を割かせないでくれ。じゃあな」
「待って」
沈黙を決め込んだようだった彼女は、俺が通り過ぎようとすると口を開いた。
「何だよ」
「貴方は、何も感じない?」
「何の話だよ」
「今、周りに起こっていることです」
……言われて、それを頭から否定することは俺には出来なかった。確かにこいつの言う通り、俺の周り、そして俺自身にも、異変は起きている。それは常々感じていることだった。
しかしこんな得体の知れない奴に、真実を告げる必要もない。
「知らない。さっきも言ったが俺は急いでるんだ」
そう言って俺はその場を後にしようと進み始めた。
「もし何か感じて、私の話を聞くに値すると思ったなら……私を探して欲しい。これだけは覚えていてください」
そう声が聞こえた。振り返ってみると、もうそこには誰も居なかった。
「何だよそりゃ……」
再び進み出した。
「んで、何してんのお前」
「あ? 見れば分かるだろ。ラーメン食ってんだよ」
「何で入院中のお前が、ここでラーメン食ってるの」
「暇だから」
「アホか!!!!」
どこからか取り出した本で目の前のそいつのドタマを殴る。
「イテェ……ちょっとは秋也、病人を気遣えよ。しかも打ったトコ殴りやがって」
本の名は『超歴史大全絵巻 全三部』。数百ページに渡るよく分からない資料教材だ。
「どこの病人が入院したその日に商店街に来てラーメン食うんだ。抜け出してきたのかよ」
「まぁな。制服もベッドの横に置いてたし、誰も見舞いに来ねぇから暇だったんだ」
「お前が待ってる時間に行けるのは学校行ってない奴だけだドアホ。ちょっとラーメンでも食っていこうかと思ったらこれだ……」
「人生って楽しいだろ」
「やかましい。それで調子はどうなんだよ」
ズルズルと麺を口に入れながら俊は顔を上げる。
「ウッ」
突然むせた俊は、麺をピューーと吐き出した。そしてそれは投網のように、俺に降り注いだ。
「いっぺん死ね!!」
またどこからか取り出した本で、俊のドタマに五発入れる。本のタイトルは『倫理・愛、そして永遠』という分厚い資料集だ。
「待て待て、事故だ。落ち着け、悪かった」
「事故ばっか起こしやがって……お前、俺をおちょくってるだろ。心配して損した」
「違うんだ、悪かった。まぁ座ってくれ」
再び席についた。ちなみにかなり店内で注目を浴びているが、気にしないで置こう。
「で、調子はどうだって?」
「調子も何も、一瞬気を失っただけで、あの後は全然普通だったんだ。だけどたまたま周りに居た奴が先生呼んで来てさ、頭打ったって言ったら救急車呼ばれちまったのよ」
「そりゃ、頭打ったなら表面上には見えなくても怪我してる可能性があるからな」
「精密検査だのなんだの言ってたけどそれも終わって、異常なしって診断も出たのに、大事を取って一日入院しとけって医者に言われてな。俺は断固反対したんだが俺以外が全員賛成しやがって、結局今日は泊まりだよ。やってらんねぇ」
「ふーん、まぁその方がお前の為でもあるだろ。ところで」
「何だ」
「お前、階段を踏み外したんだろ?」
「そうだ」
「お前らしくないよな。後ろ向きに倒れたとかも変だし」
そこなんだ、俺が引っかかるのは。贔屓目なしに、俊はクラスで一番運動神経がいい。そんな俊が階段を踏み外すなんてドジをしでかすとは信じ難いのだ。まぁこいつはアホだから何するか分からないのではあるが。それに倒れ方にも疑念を抱かざるを得ない。
「ああそれな、俺も妙に思ってるんだよ」
「妙?」
「俺は普通に階段上ってたんだ。そしたら後ろから、何か引っ張られるような感じがしたんだ」
「引っ張られる……」
「でもここが妙なんだ。近くには誰も居なくて、一番近い奴で多分職員室に飛んでった女生徒二人組だから……それでも数十メートルは向こうだった。朝練前でかなり早い時間帯だったから人は少ないんだよ。誰も俺を引っ張れる奴なんて居なかった」
「…………」
「どうもおかしいだろ? 俺にはさっぱりわかんねぇ。まぁ、大したことなかったから気にしてはないけどな」
「そうか」
生返事をして、俺は立ち上がった。
「見舞いに行く手間も省けたし、俺はもう帰るよ。最近体調がよくないんだ」
「前も言ってたな。そういや顔色があんまりよくないな」
「さっさと寝ることにする。それはそうとお前、さっさと病院に戻れよ。俺以外の奴が病院に行ってるかも知れないぞ」
「あ、そうか。来るとやばいな、失踪事件として公になっちまう」
この男はそんなことにも気づかなかったのだろうか。
「じゃあな」
「おう、またな」
結局俺はラーメンを頼まずに店を出た。
状況を整理しよう。学校では奇怪な、それも表面上は人為でないと思われている事故が多発している(本当に人為でないかは定かではない)。その事故の被害者は揃って結構重い怪我を負っている。こんな事件は学校史上前代未聞だそうで、教師側も困惑しているそうだ。生徒の親たちもそろそろ黙っては居ないだろう。
その被害者は十人に上り、被害者となる人間に共通した特徴はない。男女・学年・クラスなどはバラバラだった。何とこの十人の中の一人は教師だそうだ。
そして十一人目の被害者が俺のクラスの室見俊。こいつは頗る運動神経のいい奴で、学年に名を轟かせる名バスケプレイヤーだ。頭と性格に難はあるが一応俺の友人だ。
俊が怪我を負ったのは、登校の際に校舎の南階段を上っていたところ、何者かに後ろに引っ張られるように転げ落ち、頭を打った。幸い怪我は軽傷で、今日明日にも退院出来るような状態だ。本人の証言によるとまさに後ろに引っ張られたような感覚があり、且つ周りに居た人間といえば数十メートル離れた場所に居た女生徒二人だけだったらしい。部活の朝練に行く為に早くから来ていたので、生徒の数は疎らだったのだ。つまり俊は誰かから攻撃を受けたわけではない。それが最も妙なところなのだが。
以上を総括して考え、推論を出す。次のことが考えられた。
1、一連の事故はまさに偶然の残物であり、俊が感じた人為的要因も気のせいに過ぎない。
2、一連の事故は或る人間が巧妙に仕組んだことによって発生したものであり、何らかの目的に準じて事を運んでいる犯人が存在する。
3、一連の事故は“或る未知の要因”によって生まれたものであり、その要因というものは予想にも及ばないことである。
3は要約すると、オカルト的な事象が起因となって事件は起こっている、ということだ。そして俺が一番信じたくない選択肢でもある。
出来れば1を信じたいが、今のところ一番信憑性があるのは2と3だ。しかしどっちにしてもこれは、異常だ。
そう、事態は異常だった。加えて俺には原因不明の体調不良がある。一体どうしたっていうんだ。俺の周りに何が起きている……? 俺は、一体どうなるんだ?
そう自問した時、或る言葉が思い出された。
『もし何か感じて、私の話を聞くに値すると思ったなら……私を探して欲しい。これだけは覚えていてください』
例の放課後の女の子の言葉だった。その時は一笑に付していたが、今となっては軽んじることの出来ない言葉だ。
今の俺の状況を全て見透かしたような言葉。そして俺の周りに起きていること。そして俺があの子を無視しようとした時に見せた、何故か悲しそうな、縋るような表情。
――俺が縋りたいぜ畜生。
明日、あいつを探そう。
★4日目
昼休み。俺が起こすべき行動は一つだ。
食堂、一年の教室、二年の教室、廊下を奔走する。あいつを探す為に。どうしても俺はあいつと話をしなくてはいけなかった。聞きたいことは山ほどあった。
十分、二十分と時間は過ぎる。走り続ける。きっと俺は、今日学校内で昼休みに移動した距離選手権なんてものがあったら優勝していただろう。というくらい、走り続けた。
だがどこを探しても見つからなかった。残り時間は五分と少し。畜生、身体中が悲鳴を上げている。だというのに、見つけられない。
途方に暮れて屋上に向かう。捜索は半ば諦め、汗だくになったので涼しい風を求めてということもあった。が――。
そこに、あいつは居た。転落防止用のフェンスを掴み、遠景を見ているあいつが。憧憬を抱いているかのような眼差しで、じっと遠くの山を見ていた。まるで思いを馳せるかのような……悲しげな羨望の眼で。
「おい」
俺は矢も盾も堪らずに声を掛けた。あいつはビクッと驚いて反射的にこっちを振り向いた。
「……貴方」
「探したぞ」
「…………」
俺の言葉に、何故か安堵したような表情を浮かべる。
「よかった。私の言葉を覚えてくれていたんですね」
「……ああ。認めたくはないけど、俺の周りは確かにおかしいことだらけだ。正直、君の見解を聞きたい」
「慌てないで」
逸る俺を窘めるように言った。だが俺にはそれどころじゃなかった。
「あの事件は何なんだ? 俺が原因って、どういうことなんだ」
俺は二つ目に訊きたい質問と三つ目に訊きたい質問を投げかけた。
「今起こっている事故は確かに偶然じゃなく、そして原因は、貴方です」
「それはどういうことなんだ……」
「今は時間がありません。放課後に話します」
キーンコーンカーンコーン……。
予鈴が鳴り響く。女の子は立ち去ろうと俺に背を向けた。
「待ってくれ」
俺の制止の声に、彼女は足を止めこっちを見遣った。
「一体、俺に、何が起こっているんだ……?」
一番、訊きたいことだった。
「――放課後、貴方のクラスに行きます」
そう言い放つと再び階段の方に歩き出した。
確信した。あいつは、何かを知っている。
放課後、誰も居なくなった教室で窓から外を眺める。季節は夏に向かっているだけあって、太陽はまだまだ沈まぬとばかりに燦々と輝いている。
「風峰さん」
教室の端から声がかかる。そっちを見遣ると例の女の子が立っていた。
「遅くなりました」
「いや、いい」
「早速ですけど、話をしますか?」
「願ったりだ」
「それでは。何度も言うように、今起こっている事件の原因は、貴方です」
「ああ。その理由を聞きたい」
「貴方には、幼少の頃に仲良くしていた女の子が居ませんでしたか?」
「は?」
突然、話の方向性が変わったことに驚きを隠せず、俺は間抜けな返事をした。
「思い出してください。居ませんでしたか?」
「……幼少って、小学校の頃か?」
「はい。小学校に入りたての頃です」
「…………」
質問の理由への猜疑心は別として、希薄だったが確かにそんな記憶はあった。
「居た。あの頃、俺はひどく恥ずかしがり屋で、友達もあんまり居なかった。女の子の友達なんて、一人しか居なかったな」
「その子について、何か覚えてませんか?」
「……今はどうしてるのかは知らない。いつしか交流がなくなってた。それにそんな昔のことなんてはっきりと覚えてない」
実際、俺にとって女の子の友達なんてのはそんなもんだ。今になって彼女も居ない俺に、社交性なんてものはなかった。
「その子、つい最近死んだんです」
「へ?」
次々と俺を驚愕させるようなことをさらりと言ってのける。
「貴方が覚えてないのも無理もありません。その子は小学校に入学してすぐ、病気にかかって入院してしまったんです。そしてそれきり学校に来ることはなかった。それほど重い病と、闘っていたんです」
「…………」
「そして、つい最近になって容態が悪化して死にました。貴方より一つ若い、十六歳で」
「…………」
そんなことは聞いたこともない。それに非情かもしれなくても、俺には先に確かめなければいけないことがある。
「で、その話は今の事件と何の関係があるんだ?」
「率直に言うと、今この事件を引き起こしているのはその子の霊です」
「…………」
霊……。あの幽霊とかいう霊か……。
「信じられないでしょうが、後でこれが事実だということを教えてあげます」
「仮にそれが本当だとしたら」
俺は先を急いだ。
「その子は、小学校の時に一緒だった俺の健康を妬んで、俺の周りでドンパチやって嫌がらせをしてるわけなのか?」
尤も、今健康じゃないが。
俺がそう問うと、彼女は突然押し黙ってしまった。
「…………」
何かに耐えるような沈黙。
「そうじゃないんです」
やっと吐き出される言葉。それでも今までの調子で彼女は続ける。
「となると、何なんだ」
「死んでしまったその子は、まだ元気だった頃の友達であった貴方の元に引かれるようにやって来ました。唯一仲のよかった友達の日常を見ていたいと願ったのです」
「ならいいじゃねぇか」
「それだけなら問題は全くなかったんです。だけど、その子の願いが余りに強かった為に、辺りに点在している悪霊が引きつけられてこの学校に集まっているのです」
「悪霊……」
どんどんオカルトじみてきた。
「じゃあ、今の事件の原因は、その悪霊の所業なんだな」
「そうです。そして今の現状をその子は悲しんでいる。この話が本当なら、貴方が原因の一端には違いないでしょう?」
「……そうだな」
なるほど。筋は確かに通っている。
「でもな、ちょっと合点が行かないところがあるぞ」
「…………」
「その子は、現状を悲しんでいるんだろう?」
「はい」
「なら、どうしてここを去らない? 被害を振りまいている状況が耐え難く、且つ自分がその原因になっているとしたら、俺だったらそこを去るぜ」
「…………」
一瞬落ちる、沈黙の影。
「その子は、願いの強さ故にそこを離れられないのです。地縛霊というのを知ってますか?」
「ああ、一応」
「その子は、まさにその地縛霊です」
「じゃあ、離れたくても、離れられないと」
「そういうことです」
……なるほどな。
「風峰さんは今、原因不明の疲労感がありませんか?」
「……ある」
どうして分かったんだ。ここまで的確に当てられると、少し怖いものがある。
「それは、貴方の霊感のせいです。貴方は人より霊感に秀でてる。だから今、この学校の異常な霊の状態に神経が参っているんです」
「なるほど……」
これも確かに筋の通った話だ。
「なら俺は」
最大の疑問を口にする。
「じゃあ、どうするべきなんだ? 現状は打破出来るのか?」
最大にして究極の質問だった。この疑問を払拭出来なければ何の意味もなかった。
「出来ます。だからこうして私は貴方に接触を図っていたんです」
「すると、俺が加担しなければ解決出来ないような問題なんだな」
「そうです」
「その前に」
俺がピシャリと話を切った。
「一つ確かめておきたいことがある」
「何でしょう」
「どうして、君はそんなことを知っているんだ?」
「…………」
少しの沈黙。
「私は、或る寺に生まれたんです」
「寺」
「はい。代々除霊を生業にしています。そして私もその手ほどきくらいは受けています。だからちょっとした霊的異常なら感知出来るんです」
「そうか」
それなら俺の霊感とやらの強さを言い当てたことも合点がいく。
「分かった、話を続けてくれ」
「はい。それで私たちが取る行動ですが」
「ああ」
確信に迫る言葉を前に、言葉を切る。
「霊を、殺します」
「……霊を」
殺す。そんなことが、可能なのか……?
「霊を……殺せるのか?」
「可能です。分かりやすくいえば『成仏させる』でしょうが、実際のところは殺すと同義です」
「でも、生徒に危害を加えているくらいなんだからそう簡単に殺せるもんなのか?」
「いえ、違います」
「え?」
「殺す霊は、悪霊ではなく、女の子の霊です」
「…………!!」
二の句が継げなかった。
「悪霊はいくら殺しても女の子が居る限り引き寄せられます。それをいちいち殺すのではいくら時間があってもきりがないでしょう。悪霊というものは星の数ほど居るんです」
「…………」
「覚悟を決めてください」
俺が、殺す、のか。
「ちょっと待て……」
「はい」
「正直なところ、これだけ話してもらって悪いが、話に信憑性が持てない」
嘘だ。俺は目の前に提示された課題から逃げようとしているだけだ。彼女の言葉には、不思議なことに一片の疑念も湧いてこなかった。確信に近い。
だが俺には、そうやって逃げざるを得なかった。縦え相手が幽霊であろうと、自分の意志を持って存在するものを終焉させるなんて……考えられなかった。
「そうでしょうね」
「…………」
「いきなりこんな話を聞かされても信じられませんよね」
「…………」
「私が最初に言ったことを覚えていますか?」
「え?」
「後でこれが事実だということを教える、と言ったことです」
「…………」
事実だということを教える。それは今の俺にとっては、逃げられない現実というものを目の前に突きつけられるに等しい。そんなことは……耐えられない。
だが……。
「分かった。どうやって?」
「今夜、そうですね……八時に校門前に来れますか?」
「…………」
俺は、拒否し切れなかった。
「オーケイ。行こう」
「出来れば制服で来てください」
「分かった」
理由は聞かなかった。いや、そんな余裕はなかった、という方が正しいだろう。
「では私はこの辺で」
「ああ」
そして彼女は立ち去っていく。
『八時に校門前』
首筋が、腫れ物が出来たかのように熱かった。
今夜は、いつもの途方もないような眠気はない。家に帰ってから、普通に夕飯を食べ、定刻を待った。
七時半――。
頃合だろう。制服に着替える。
「母さん、ちょっと出掛けて来るよ」
「こんな時間に、どこに行くの?」
「ちょっと学校に忘れ物をしたんだ。どうしても今日要るものでね」
「……わざわざ制服なんか着て」
「学校に行くんだから、制服でもおかしくないだろ?」
「言われてみればそうだけど……」
「じゃあ、すぐ戻るから」
そして俺は家を出た。
「早いな」
「もう十分前ですから。来ていてもおかしくはないでしょう」
「確かに」
よく晴れた夜空には疎らに星が輝いている。月が明るい。
やけに蒸す夜だ。湿度が高くて、汗が気持ち悪い。気温と湿度が高く風のない、いわゆる熱帯夜という奴だ。
「それで、どうするんだ?」
「……風峰さんの教室に行きましょう。そこに行けば瞭然です」
ゴクリ、と生唾を嚥下する。そこに一体何が待つのか。頭では分かっていてもイメージは湧かなかった。
「危ないと思ったらすぐに逃げてください。私に関しては大丈夫ですので、独りで逃げてください。外に出れば合流は出来ます」
「分かった」
危険なのは承知の上だ。
夜の校舎は驚くほど昼間と異なって見える。まるで違う世界だ。いつも喧騒に満ちている昼間とは正反対に、夜の学校は静寂しかない。こんなに暑いというのに、空気だけは凍っているかのようだった。
響くのは俺と彼女の足音だけ。コツコツ、とそれぞれで微妙に音色の違うそれが、不協和音を奏する。その音はひどく不吉で、頼りなかった。
身体は常に警戒している。俊ほどじゃないが、運動神経には多少自信がある。腕力は人並みだが、足と肩はそこそこのものだと思う。いざとなれば遁走するのだ――。
俺の教室は三階。だから俺たちは今、階段を上っている。俺の教室は階段のすぐ横にある。
「着いたな」
掠れた声で呟く。彼女の言う“霊感の強さ”で俺が神経をすり減らしているのだとしたら、夜の学校は尚更そうなるだろう。校舎に入る直前、彼女はこう言っていた。
『霊を殺す方法は、前にも言った通り人を殺すのとほぼ同様の方法です。ただ実行出来る時間帯が夜に限定されるというだけなんです』
『どうして夜なんだ?』
『夜は、霊の現実に干渉する力が増します。より現実に具現化し、昼間では直接触れることは困難な霊でも、夜はほとんど生命体のように干渉が可能になるんです』
『なるほどな。だがそれだと、昼間に悪霊が現実で及ぼしている影響の説明がつかなくないか?』
『さっきも言った通り、昼間に於ける霊と現実の干渉は、ただ“困難”なだけであって“不可能”ではないんです。霊はあちこちを移動し、現実界の法則を無視したような動きが可能で、私たちがそれを追うことは不可能でしょう』
『要するに、昼間はされるがままってことか』
『そういうことです』
『なるほど。オーケイ、行こうか』
…………。
夜は霊の干渉力が強い。実際、俺の身体もかなりきつい状態だ。手は鉛のように重く、足は棒のように思える。だが動きはしっかりとしていて、運動には何とか支障を来たさずに済みそうだ。
……俺は彼女の説を否定するが故にここに来ている。こんなことは無駄だと分かっていた。一刻も早く策を講じないと、被害は増えていくだけということも分かっていた。だが、――だが。
迷っていた。躊躇していた。俺が手を下さなくてはいけないことに。俺を縋ってやって来たというその罪のない意志に、終止符を打たなければいけないということに。その迷いの表れが今の俺の行動だった。
「中に入りますよ。いいですか、校門のところで言ったことを忘れないでください」
『危ないと思ったらすぐに逃げてください。私に関しては大丈夫ですので、独りで逃げてください。外に出れば合流は出来ます』
――分かってる。
無言で頷く。そしてドアは、悲鳴のように軋みながら開かれた。
中に踏み入る。静寂が恐ろしさを掻き立てる。月明かりだけがこの教室の中にある唯一の正義であるかのようだった。粘つくような冷たい闇の中に視線を走らせる。
何もない。雰囲気は明らかに異なるが、それを除けばいつもの教室に変わりなかった。
「何もないじゃないか――」
そう言ってドアの方を振り返った時、そこに何かが居るのが分かった。
グォォォォォォォ……。
地から響くような唸り声。猟犬を二回りくらい大きくしたような獣が、ドアを塞ぐように構えていた。これが彼女の言う悪霊の一種に違いない……!
「…………!!」
と、俺が身を引いた瞬間、獣は俺の隣に居た彼女を目掛けて飛び出してきた!
「くっ!」
俺と彼女は咄嗟に身をかわす。俺のすぐ横にあった机が獣に吹っ飛ばされて窓際の机にぶつかった。机が壊れる音がけたたましい。
奴の力はただ事じゃない。早く逃げなければ……!
逃げる体勢を取る俺を尻目に、獣は彼女の方に目を向けた。彼女はキッと身構える。
彼女が危険だ……!
だが、彼女が俺に言った言葉が思い出された。
『危ないと思ったらすぐに逃げてください。私に関しては大丈夫ですので、独りで逃げてください。外に出れば合流は出来ます』
…………馬鹿野郎、だからってこの状況を目の前にして、はいそーですかと尻尾巻いて逃げれるほど俺の思考回路は巧く出来てねぇよ。
「危ない!」
飛びかかろうとする獣に体当たりを入れる。獣は虚を突かれてさっきの机のところまで弾き飛ばされた。だがダメージも全くないのか、すぐに体勢を立て直し、混沌に満ちた双眸でこちらを凝視した。
危険だ……。
今の攻撃で、獣の注意は彼女から完全に俺に移っている。俺はじりじりと後退しながら身構えていた。俺と奴の距離を基準とすると、俺とドアの距離は約二倍。背を向けるのは危険だ。
俺が少し後ろに下がると奴も少し前に進む。間合いを逃がさない為だ。畜生、このままだと非常にまずい……!
「風峰さん!!走って!!」
突如、背後から彼女の声がした。刹那、俺は反射的に全力で後ろへ駆け出した。そこにはいつの間にか廊下の窓まで移動していた彼女が、その窓から身を乗り出していた。
無論、奴がこのまま俺を見逃してくれるはずはない。俺が駆け出すのとほぼ同時に奴も動き出すのが分かった。
「早く!!」
「分かってる!!」
ドアを抜ける。もう奴がすぐ背後に迫っているのが分かった。
「飛んで!!」
言われるがままに跳躍した。そして俺は華麗に窓から外に飛び出した……。
「……死んだかと思った」
グランドにある小さなベンチに腰掛けて、乱れる息を整えながら呟いた。
「あの時は君の言う内容だけを捉えて、それに対する吟味を全くしなかったからな。窓から飛んで!は、死んで!と等しいぞ普通。三階だぞオイ」
「…………」
俺の言葉には何も答えない。
「そんな空飛べる力があるんだったら先に言ってくれって」
「あれは空を飛んだんじゃありません。霊の干渉力を利用して重力を限りなく抑制して落下を遅めただけです」
「一緒だって」
休憩だ。肩に力が入りまくってもう体力は限界だ。
彼女は俺の前方に突っ立ったきり、微動だにしなかった。が、口を開いてこう切り出した。
「どうして」
「ん?」
「どうして、私の言う通りにしてくれなかったんですか?」
「何が?」
「私は、危険な状況になったらすぐに逃げてって言いました」
「ああ、そうだったな」
「なら、どうして私を顧みたんですか?私は何とか出来るって言ったのに」
「そりゃあ……」
――言うのも癪だしな……。
「忘れてたからだ」
「…………」
彼女は押し黙って何も言わなかった。妙にしおらしいな……てっきり怒られるかと思ったが……。
「そういえば、君まだ名前聞いてなかったよな」
「名前……?」
「そう、名前」
本当ならもっと早く聞いていてもおかしくはなかったはずだ。
「結城あずさ」
「結城あずさ……。分かった」
名前を聞き終わると、緊張が緩んだのか疲れが身体中を襲った。
「う……やばい。動けなくなる前に家に帰らないと……」
「大丈夫ですか?」
「ああ、まだ何とか歩ける。だが、訊いておかないといけないことがある」
「はい」
「あの教室で出くわした獣は、やはりその悪霊というものなんだな?」
「そうです」
「そうか。女の子の霊には、出会えなかったわけだな」
「……そうですね」
「それとまだ一つ。俺が携わる必要性はどこにあるんだ?」
こう言っては何だが、霊を殺すのならスペシャリストである結城が単独で行動した方が遥かに効率がいいのは自明だ。
「彼女の霊を具現化させる為です」
「俺が居ないとダメなのか?」
「はい」
いまいち釈然としないが、詳しい話を聞けるほどの気力もなかった。
「……よし分かった。訊きたいことはこれで全部だ」
「分かりました。では解散しましょう」
「待て。訊きたいことは確かに終わったが、今度は言わなくてはいけないことがある」
そうだ。今日のことのけじめとして、彼女を――結城を危険な目に遭わせたけじめとして、言わなければいけないことがあった。
「結城の話は完全に本当だった。それは完全に信用する。そして、俺は誓約する。俺を縋って、この学校にやって来た女の子の霊を――」
言葉を止めると、夜の静寂に飲み込まれそうになる。俺は続けた。
「この手で、殺すことを」
ゾワ……と強い風が一瞬だけ吹き抜けた。俺には、この風はが学校内に残る女の子の嗚咽に思えた。
「……分かりました。決戦は、明日ですね」
「ああ。全て、明日で終わらせよう」
複雑な表情で俯いていた結城は、やがて固い決意と共に顔を上げた。
「では、また明日」
重い足取りで、しかし覚悟を決めて俺は家に向かった。
今日は色々なことがあり過ぎた。何も知らない俺の傍で、こんな事態が展開していたなんて、想像できる由もない。しかし全ては現実で、俺はそれを享受せざるを得なかった。そしてまた悟る。本当に女の子を救う為には、俺自身が手をかけなければいけないということを。純粋な願いが不幸にも悪しき形で実現してしまった彼女を、殺さなければいけないということを。
記憶が薄れているのが苛立たしかった。女の子の名前すら鮮明でないことで自分が嫌になった。
だが、俺は果たさなくてはならない。全ては明日にかかっている。
★5日目
いつも通りに登校する。今日という日に成さなくてはいけない使命を感じてか、身体はいつもより快調だった。神経が受けるプレッシャーは変化しないだろうに、後の反動は辛いものだろう。だが今日の決戦を思えば、ありがたいことだ。
教室に入ってみれば、足がでたらめな方向に向いた机が一つ、窓際に転がっていた。クラスメイトがいぶかしんで群がっていたが、俺は一瞥しただけで自分の席に着いた。あの惨状の理由を知っているのは俺と結城だけだ。
昼休み。退院してから初登校の俊が、声を掛けてきた。
「よぉ、御無沙汰」
「……ん、来てたのか」
「来てたのかって、一時間目から居ただろ」
「ああ、そうだったな」
「……どうしたんだ?いつもにも増して変だぞ。心ここにあらずって感じだ」
「…………」
俊には悪いが、あまり相手にする気力がなかった。
「そんな様子じゃ、俺に続いて例の事故の被害者になっちまうぞ?」
「いや、大丈夫さ」
「……へ?」
そう、大丈夫なんだ。
「今日で、その事件は終わる」
「……はぁ?」
終わらせて、見せる。
「いよいよ、だな」
低くなった太陽の光が教室の中を射抜く。見慣れたこの光景が、今は妙に遠いものに思えた。
「はい」
俺の隣で小さく頷く結城。思えばこいつと出会ったのはつい三日前だ。こいつは、妙に思いつめたような、毅然とした雰囲気で俺の前に現れた。不思議な奴だ。寺に生まれたから霊感があると言っていた彼女。日頃からこんな風に不可侵の力が見えているのだろうか。だとすればその日常は、俺が想像も出来ないようなそれなのだろう。
最初は鼻で笑っていたこいつの説も、日を追うごとに俺の中でその信憑性は確実に増していき、今では確信している。俺の周りを異常たらしめているものの正体。縦えその奥底にあるものが悪意ではなかったとしても、それを除去しなければならないという残酷な現実を享受しなければいけなかった。且つそれを、実行しなければいけなかった。そしてその実行は――まさに今夜なのだ。
「昨夜と同じ、八時に校門の前へ集まりましょう」
「分かった」
「細かいことはその時に伝えます」
「ああ」
緊張の為か、言葉を練るのが億劫だった。
空気はどんよりと重い。湿気が多く、温度が高い為だ。身体の調子は悪くない。むしろ良化している。鼓動は高鳴っていくばかりだ。
夜の闇はあまり好きになれない。何か熱を吸い取られてしまうような、怖いイメージがあるからだ。だが今日は厭っている場合ではない。この闇の中で、闘わなければならないのだ。
思えば、学生服で来いという結城の指示はそこにあるのかもしれなかった。闇の中で真っ黒な学生服はほとんど判別出来ない。策としてはなかなかの効果があると思う。この季節には少々汗ばむが、致し方あるまい。
校門前に辿り着く。相変わらず先に来ている結城。まだ三十分も前だというのに――。
「早過ぎるぞ」
「遅いよりはいいと思いますが」
「それはそうだが……」
「早速ですが、段取りを説明します」
「そうしてくれ」
結城から、短刀が手渡された。
「これは?」
「それが、武器です」
「ナイフくらいなら、俺も用意してきたぞ」
決戦だというのに丸腰で来るほど俺は抜けてないつもりだ。幽霊相手にどんな武器が通用するかなんて予想も出来なかったが、それでも一応は持ってきたのだった。
「そうですか。ならばどちらを使ってもらっても構いません。ですが今日は“幽霊相手”という意識ではなく、“生き物相手”という意識で向かってください。前にも言いましたが、夜ではほとんど霊たちは実体化しています。私たちが近づけば確実にそうするでしょう。それは生き物と同じような動き、性質を持っています」
「そうか、ならちょっとは安心だ」
正直、魔法とか使われたらどうしようかと思っていた。
「それで、俺たちはどこに向かってどういう風に目的を達成するんだ」
「風峰さんの教室です。そこに必ず、彼女の霊が居ます。そして彼女を、殺すのです」
「昨日は見なかったが」
「昨日は、居る時間が短すぎたので現れなかったのでしょう。具現化するまでの時間は、霊本体の意志の強さに比例し、生命体との距離に反比例します」
「なるほど」
つまり、あの子は俺に会いたいってわけか。
だが、俺がすることは――。
「行こう」
「はい」
決戦の地へ。
階段をカツカツと上がる。昨日と同じく、空気は凍りついたように張りつめ、静寂が一帯を支配している。響く二人の足音が気味悪く感じられるほどだ。意を決して三階へ、俺の教室へ向かう。
教室のドアの前に立つ。開くことに躊躇する――が、意を決してドアに手をかけた。
「開けるぞ」
「はい」
ガラガラ、とドアを開ける。その瞬間、教室の中から黒いものが飛び出した!
「うわっ」
咄嗟に飛びのく。その黒い影の正体は、昨日の化け犬だった。
慌てて距離をとる。俺と結城のちょうど真ん中に立ちはだかる奴。その視線は辺りを見回したかと思うと、俺の方向を向いて制止した。
「昨日のリベンジってことか」
俺は手に握り締めたナイフを構える。奴には確か、凄いパワーがあった。机を吹き飛ばして破壊してしまうほどに。
奴が地を蹴ってこっちに突進してきた!
「くっ!」
寸でのところで身をかわし、ナイフを振るう。だがそれは空を切るだけで、奴は俺の後方へ駆け抜けていった。
速い……!
廊下は横幅が狭いのでよけることが困難だ。直線的な動きをする奴にとっては格好の戦場となっているだろう。
「結城!教室に敵が居ないか確認してくれ!」
後ろに居るはずの結城に声を飛ばす。
教室には彼女が居るらしいが、結城の話によると具現化には時間がかかるらしい。彼女を除けば何も居ない可能性もあった。
「誰も居ません!」
「分かった」
奴との距離をとったまま、後退する。奴も自分の間合いを保ったまま接近してくる。そして俺は即座に教室へ逃げ込んだ。
ガタガタ、と気休めながらもドアの前に机を並べる。しんと静まり返った教室。中で俺たちは身構えた。
「結城」
「はい」
「何か、攻撃するような能力は持ってないのか?」
「霊相手なら動きを鈍らせるとか、霊気による攻撃を緩和したり出来ますが、直接相手を攻撃するようなそれはありません」
「そうか――」
ならば決定打はやはり、どうしても俺ということになるんだろう。
「彼女の幽霊本体を倒してしまえば悪霊は離散するんだな?」
「そうです」
ならば、今対面している奴さえ倒せばいいはずだ。彼女が現れるまでの時間はそれで稼げるだろう。
「よし……来るなら来い……!!」
廊下の方を凝視する。背後の窓側からは月明かりが射し込み、俺たちの影が不気味に伸びていた。
幽霊には気配というものがないのか、廊下からは何の音も気配も感じられない。
「…………」
息を殺して警戒する。
「危ない!」
結城の叫びが静寂を壊す。咄嗟にでたらめな方向に跳ねた。着地し、俺が今まで居たところを見遣るとそこには不敵な眼光を双眸に湛えた奴が居た。跳んでいなければ俺はやられていただろう。
「どこから来た!?」
位置からして奴は俺の背後から来た。俺の背後には窓しかない。そこからどうやって……!?
「霊ですから、一時的に具体化を解いて背後に回ったんです!」
そうか……こいつらに常識は通用しないわけだな……。
「月が明るくて影で判断出来てよかったです」
結城は影で判断したのか。場数を踏んでいるからこそ出来る判断だろう。
教室には机が散乱している。実体化している今、直線的な突進は出来ないし、元より動きにくいはずだ。廊下よりは勝機が多い……!
「…………!」
微動だにせず、俺と奴は向かい合った。そして俺は結城を庇うように、じりじりと横方向に移動する。結城は奴に対して色々と能力を使うので、俺はその盾にならなくてはならない。
「風峰さん、たった今術をかけ終わりました」
「……そうか」
特に何かが変わったようには思えないが(互いに動いてないので当然だが)、結城がそう言う以上は、今が時なのだ。
覚悟を決めて奴に向かって駆ける。一瞬の差で奴も地を蹴り、俺に向かって来た!
「チッ!」
ナイフを繰り出す。だがそれは牽制のつもりだった。当然奴はそれに当たることなく、身を翻されて俺の真横の机に降り立つ。
「せぁっ!!」
気合と共にそちらにナイフを振るう。相手の行動を読んでいた俺のナイフは素早かった。もしかするとこれで仕留められたかもしれない……!
だがそれも甘かった。奴は俺のナイフに前足の爪らしきもので止めると、続けてもう一方の前足で俺に攻撃を繰り出してきた!
「…………ッ!」
手を引き、ナイフをそれに合わせると力任せに押し返した。結果、ナイフで足を押しのけた形になり、相手はバランスを崩した!
チャンス!!
すかさずナイフを振るう。が、やはりそれは空を虚しく切り裂くだけで、標的は体操選手も顔負けのばく転で後ろに飛んだ。
奴は本当に運動能力を抑制されているのだろうか……?確かに攻撃に前ほどのキレはなくなっているように感じるが、あの厄介な身のこなしを封じないことにはこちらの攻撃は掠りもしないだろう。
このままでは埒があかない。となると、取る行動は唯一つ……!
相手をおびき寄せ、こちらに攻撃を仕掛けた時に合わせ撃つ――カウンターしかない。
敵の最も隙の多い瞬間とは、相手を仕留めようと決定打を繰り出す時だ。肉を斬らせて骨を断つ……出来れば使いたくない方法だが、そうは言っていられない!
「来い……次で終わりにしよう」
長期戦はスタミナのないこちらが不利だ。俺たちに勝ち目があるなら……それは短期決戦しかない!
ジリジリと俺は距離を詰める。奴は俺の攻撃を警戒しているのか、間合いを詰めようとはしないで、横に動いて様子を見ている。
来い……良くも悪くも、終わりはもうそこにある……!
数秒、数十秒、一分が経ったろうか。時間の感覚が薄れていく。それほどまでに警戒に神経を磨耗しているのだ。
俺は相変わらずジリジリと少しずつ距離を詰めている。奴は巧みに左右に動き、互いに決定打の出せない中距離を保っている。机の上から他の机に移動する時にも隙を見せない。こちらの消耗を待っているのだろうか。
そして俺はとうとう行動を起こした。奴との狭間の机が一つになったところで、俺はその机を思い切り蹴飛ばした!
ガン! と机は横倒しになり、それは奴の乗っている机にぶち当たった!
それが合図になったのか、奴は俺に向かって一際大きく跳躍し、飛びかかって来た!
「来るか……っ!!」
俺はその動きを目で追いかけ、ナイフをその方向に構えた。来い、迎え撃ってやる……!!
が、奴の動きはそれほど単調なものではなかった。奴は大きく跳んだわけだが、それはあまりに大き過ぎた。どれくらい大きいかというと、それは天井に届くくらい――。
奴は天井をまるで地面のように蹴り、天井から初速度を持って重力で加速しながら突っ込んでくるという常識外れの離れ技をやってのけたのだった。
タイミングを逃がした俺は咄嗟に身をかわそうとしたが、あまりにも奴の動きは速すぎた。
「ぐっ!」
腹部に殴られるような痛みを覚え、思わずうめく。余りにその衝撃が強かったのか、俺は後ろ側に吹っ飛ばされた。
「ぐあ……」
まずい。ダメージは動けなくなるほどのそれじゃないが、足に来たようだ。すぐに立ち上がれない……。
「風峰さん!!」
結城が俺の下へ駆けつけようとする気配が感じられる。まずい、凄くまずいぞ……この状況は……!
俺が床に叩きつけられるや否や、奴が俺に跳びかかってくるのが分かった。
「くっ……!」
奴が俺を組み伏せ、マウントポジションを取る。
俺の目の前に奴の顔がある。俺はナイフをその顔面に滑らせてやろうと手を動かすが、その手にナイフは握られていなかった。吹っ飛ばされた拍子にどこかに落としたらしい。
絶体絶命とはこのことだ。
奴は勝ち誇ったように大きく口を開き、咆哮を上げる。
「風峰さん!!」
結城の悲痛な声が聞こえる。もう目の前に拡がる光景が何を意味するのかということすら分からない。せめてその醜悪な牙と双眸を払いのけたくて、俺は暴れた。そして叫んだ。
「逃げろぉぉぉぉぉ!!! 結城、早く逃げるんだ!!!」
無我夢中になって絶叫した。もう自分に迫る死の恐怖とか、そんなものは麻痺していたに違いない。俺はただそう、叫んでいた。
ドス黒く、嫌に隆起した奴の前足が、俺の喉元に振り下ろされた。
ザクッ!
何かに鉄の杭を突き刺すような、そんな音が響いた。
終わったのだ――そう思いながら、俺は呆然としていた。
だが、俺は生きていた。
五指も動けば身体も動く。俺はもう一度目の前の光景を見遣った。
何が起きているのかはすぐには分からなかった。ただそこには暴れ狂う醜悪な獣と、それにしがみついている女の子の姿があった。
奴は自分の確信した勝利に、あるはずのない障害が発生したことに錯乱しているようだった。
「風峰さん!!今です!」
結城の声で覚醒する。結城は俺にナイフを投げてよこした。
「…………!」
俺は暴れ回る奴の脇腹にナイフを突き刺した。嫌な感触が伝わってくる。
グォォォォォォォォォォォ!!!!!
一際大きな咆哮を上げ、奴は更に暴れ回った。しがみついていた女の子は振り落とされ、奴は窓から外に消えた。
そして、嘘のように教室の中には静寂が甦った。
「はぁ……はぁ……」
状況がよく分からなかった。俺は確かにさっき奴に殺されたはずだ。だが俺は生きていて、目の前には首筋から血を吹き出している女の子が、息を荒らげて倒れている。
「どういうこと……なんだ?」
「風峰さん、貴方があの獣に襲われ、爪を振るわれた瞬間にその子は貴方を庇うように現れたのです」
結城がゆっくりとした口調で話す。
「貴方の身代わりになるように爪を振るわれ、獣から貴方を庇うように捨て身で獣に立ち向かっていました」
「……わけがわからない」
目の前の少女を見遣る。苦しげに息をつきながら、目を閉じて痛みをこらえるかのような表情をしているのが分かった。
「しっかりしろ……!! 一体どうなってやがるんだ……畜生」
「風峰さん」
「何だよ」
「その子は、紛れもなくあの子です」
「……あの子」
「私たちが探していた、幽霊です」
「…………」
呆然と少女を見た。今は苦しみで表情が歪んでいるが、それはごくごく普通の少女だった。流れ出ている夥しい血が不釣合いな、可憐な少女だ。
「どうして……?」
「え?」
「どうして、この子は俺を助けたんだ……?」
「…………」
「この子は、俺たちの目的を、知っているだろう?」
「…………」
「どうして、どうして自分を殺そうとする奴を、庇ったりするんだよ……」
「それは」
結城は重い口調で答える。
「貴方に、会いたいから、です」
俺に、会いたい――。
どうしようもなかった。
どうにもやり切れなかった。
自分の存在を消そうとする俺を憎んでくれるならまだよかった。
俺から逃げようとしてくれるならまだよかった。
だけど今この現実はなんだ。
こんなの、俺が一番馬鹿じゃないか。
一番、滑稽じゃないか――。
「最初から」
震える声で、俺は呟く。
「最初から出来るわけがなかった。分かっていたんだ。迷いながら、俺はここに来ていたんだ」
「…………」
「俺は……」
「風峰さん」
「…………」
「その子はもうじき、死んでしまうでしょう」
「……何だって」
「出血の量は、もはや致死量です」
「……そんな、ことって、あるかよ」
少女の下に跪く。俺がその顔を見つめていると、息が落ち着いた少女はゆっくりと目を開け、こちらを見た。
「あ……」
俺は思わず声を上げる。だが少女はこちらを見つめ、ニコリと笑った。
こんな場でなければ、
こんな暗闇の中でなければ、
こんな血塗られたところでなければ、
その笑顔は、輝く太陽のようだったろう。
だが少女の目に光はなくて、
整い始めたと思った息は弱々しくなっていって、
俺の心を焦燥させた。
そして少女の口が小さく開かれ、言葉が漏れる。
「…………ごめんなさい」
理性を鉄棒で殴られたかのようだった。俺は最初、その子が何を言っているのかを理解出来なかった。
だが俺の思いはよそに、少女はもう一度ニコリと笑うと、空気に溶け込んでいくかのように、
消えた。
「さっきの悪霊が無事だったかどうかは分かりませんが、もうここに来ることはないでしょう」
結城の言葉が遠くで聞こえる。
「……風峰さん、行きましょう」
「結城」
「はい」
「あの子、俺に最後に、ごめんなさいって言ったんだ」
「…………」
「どうして……なんだよ?どうして、俺が謝られるんだ?」
「…………」
「俺、どうにもやり切れねぇよ。どうなってやがんだよ……」
「…………」
「畜生……」
畜生……!
校門を出る。何事もなかったかのように、辺りの様子は来た時と変わっていない。だがその世界も、俺には何故か遠くのように感じられた。
「終わったな」
俺は実感の湧かない事実を漏らす。別に結城の同意を求めたわけではなかった。やり場のない言葉を、振りまいているだけに過ぎなかった。
「終わりました」
結城は淡々と語る。
「風峰さん」
「何だよ」
「お疲れ様でした」
「…………」
「私の、戯言を聞き入れてくれて、共に闘ってくれてありがとうございました」
「何がありがとうだよ。俺が事件の原因だ原因だって言ってたのは誰だ」
「もしあの話を信じてもらえなかったら、私はどうしようもありませんでした」
「…………」
「こうして終わること、私は後悔してません。そしてあの私が最後に見せた、純粋な気持ちが、私を生んだということを知れて、本当に嬉しくて、安心しました」
「…………? 結城、何言ってんだ?」
「短い間でしたが、ありがとうございました。お話出来て、嬉しかったです。ほとんど暇はありませんでしたが、楽しかったです」
「結城?」
「そしてあの子のように、でもあの子とはちょっと違うことを、貴方に言います。
ごめんなさい。
そして、
ありがとうございました。
秋也君。
」
ビュウ、と風が吹き抜けた。
今まで目の前で話していた相手は、初めから居なかったように、姿を消した。
「おい…………? 結城?」
吹き荒み始めた風は、彼女の嗚咽だと知って、
「何だよ……どこに……行こうってんだよ」
俺だけが何も知らないで、俺だけが隠された真実を見つけられずに居たことに気づいて、
「もう、わけ、わかんねぇよ……なぁ、結城よぉ」
後に残ったものは、俺に刻まれた記憶だけだと知って、
俺は堪らなくなって、泣いた。
★そして……
夏も佳境、容赦ない熱気が外から吹き込んでくる。窓を開けても熱気が入り込み、閉めれば熱気が籠るという最悪な状態だ。
窓から外を望むと、蝉が太い木の幹にとまってミンミンとけたたましく鳴いていた。青々と繁った葉が、いかにも夏だと言わんばかりだった。
――近頃はセンチな気分になって外を眺めることが多くなった。
「風峰ぇ」
馬鹿の声が聞こえる。
「何だ」
「こんなクソ暑い日は食堂に行きたくならねぇか?」
「激辛キムチラーメンでも食うのか?」
「あんなもん、この季節には誰も食わねぇよ。アイス買いに行くんだよア・イ・ス。今はキャンペーン中で当たりつきスティックアイスが特価五十円だぞ」
「はいはい、行きましょう行きましょう」
財布を鞄から取り出して俊と食堂に向かう。
あれ以来結城の姿は全く見ない。それもそのはずだ。俺はあれから色々と事態を整理して考えてみた。すると真実に到達するのはそれほど難しいことではなかった。
あれから数日後、母さんが、俺の旧友――結城あずさが白血病でつい一週間前に死んだと俺に告げた。結城の両親から、俺に宜しく伝えてくれと頼まれたらしい。俺には殆ど記憶がなかったのだが、確かに小学校の低学年の頃、病気を患って俺の前から姿を消した女の子が居たことは記憶している。その子の名が結城あずさといったのだ。そういえば俺は名乗っていないのに、結城は俺のことを『風峰さん』と呼んでいた。
俺の前に現れたあいつもまた、あいつの弁でいう“幽霊”に違いなかった。それはあの学校に地縛霊として存在していた彼女とは全く別の意志を持っていて、恐らくは地縛霊として生まれた霊が、二次的に生んだ霊ということになるのだろう。そしてそのようなことになった原因は、まさに結城の言う通り、“自分を殺してくれるように、俺を仕向ける為”だったに違いない。
この事実を俺に知らせる時に言った、『家は代々除霊を生業にしている』なんてことは全くの詭弁だった。結城が俺を納得させる為についた虚偽。今となってはそれも俺の胸を締めつける過去だ。
結城が屋上で見せた寂しげな表情、憧憬を湛えた表情が、忘れられなかった。
だがまだわだかまりが残るのは、結城が遺した言葉。
『ごめんなさい。そして、ありがとうございました。秋也君』
結城がどんな心境でそれを口にしたのか、俺にはハッキリと分からない。俺を安心させたかったのか、俺に存在を記憶していて欲しかったのか、それとも――。
俺は自分で納得する為に、それら全てが真実だと決めた。あいつは結局死んでからの望みすらもこんな風に途切れてしまったわけだけれど、あいつが最後に遺した言葉、
“ありがとう”
この言葉はあいつが少しでも救われて、俺があいつの為に少しでも何かしてやれたという事実の表れなんだ――そう信じることで、俺もあいつも救われるような気がしている。
まぁ、俺の中でもはっきりとはしていないんだけれども。
「おい、何ボケッとしてんだよ。前見て歩け前」
中庭を横切る最中、五月蝿い蝉の声に混じってアホの声が聞こえる。
「大丈夫かぁ? また最近抜けてるみたいだけど。この前みたいにまた長期休暇か?」
この前、というのはあの決戦の後の数日のことを言っているのだろう。俺はあの日から高熱を出して、学校を一週間も休むという羽目になってしまったのだった。
「そんなんじゃねぇよ。俺だってたまには物思う」
「お、そういえば春頃に風峰、詩を書いてたよな。あれはボケじゃなかったわけか」
一遍こいつ、殴ってやろうか。
「まーでもあの頃はなんかおかしかったよな。事件で俺も入院するし、風峰もぼーっとしてたし。しかも俺を最後にあの事件、パッタリと止むんだから不思議だよな。犯人が秘密裏に逮捕されたとかかなぁ」
その真相を知っているのは、俺とあいつだけ。いや、あいつら、だけか。
「さっさとアイス買うぞ」
「お、いきなり欲出してきたな。ようやく風峰らしくなってきたじゃないの」
「ふん、お前の分がなくなるほど買ってやる」
「何円持ってんだ……」
季節は流れていく。いずれこの夏は終わって秋が来る。秋の次は冬、そして春。時は流れていくけれど、俺の中に刻み込まれたこの出来事は忘れまい。
それがあいつに、あいつらに対する、救いなのだと信じて。
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