陸の孤島
彼女は、いつもより6メートル高い場所に座っていた。
それまで彼女は屋根の上に昇ったことなんてなかったし、ましてこんな暴風雨の中でそうすることになろうとは想像すらしたことがなかった。
濁った泥水が何もかもを呑み込み、何とか沈没を免れたのは屋根や電信柱ぐらいのもの。その間を、台風になぎ倒された木の幹や木の葉が揺蕩っている。
そんな異常な光景を前に、だが彼女は膝を抱え、その隙間に頭を埋めていた。何かを判断する必要に迫られることを恐れて目を閉じ、本当なら耳も塞ぎたかった。
そうしないでいるのは、耐え難い秋冷の所為だ。重く濡れそぼった服は、余計に彼女の体温を奪っていく。だが彼女は大袈裟に震えてみせることもなく、只々固く膝を抱えた。絶えず彼女を苛む轟々という無機的な水音を、心の底から厭いながら。
過酷な緊張の中、彼女はぼんやりと考えていた。
今日は親友に、彼女のとっておきのおはじきを見せてあげるはずだった。大切にするあまり一度しか遊んだことのないそれを、使って欲しいとせがまれたらどうしよう。交換して欲しいと言われたらどうしよう――楽しみだった。
国語の授業で、詩の宿題を発表するはずだった。少し恥ずかしいけれど、意地悪な男子にからかわれるかもしれなかったけれど、密かに自信があった。普通の先生なら歯に衣着せる所を、割と容赦のない、だけど的を射た評価をする、担任の評価も気になっていた。
そして、いつものように遊ぶ約束を取りつけながら下校する。今、女子の間で流行っているのはバレーボール。家にランドセルを置いて、すぐに公園に集合する。もちろん試合ではなくボールのやり取りだけだが、ボールを落としてはいけないという使命感の心地よさは、むしろゲームのそれを上回る。柿色の太陽が彼女たちの影を思い切り引き伸ばすまで身体を動かし、やがて軽い寂寥感と共に帰路へ着く。そんな日常を、彼女は愛していた。
幸福の中に在りながらそれを自覚していたからこそ、彼女は目の前の光景が信じられない。
父とも母とも弟とも離れ離れになってしまった。濁流に押し流され、がむしゃらに水を掻いて辿り着いたここがどこなのか、彼女には分からなかった。慣れ親しんでいたはずの街が、見たこともない異境に思えて、思わず彼女は涙ぐんだ。
打ちつけるような雨に紛れて、泣きたいと彼女は思った。現に、表情はもう今にも堰を切りそうだ。カタルシスが彼女を促しているのは明白だった。
その時、突如、雨が強くなった。『打ちつけるような』は『殴りつけるような』になり、その変化に彼女はビクリと身を縮めた。泣こうとするのを叱られたかのように思えて、膝に頭を押しつけながら彼女は堪えることに必死になった。
いくらかき消そうとしても執拗に脳裏に浮かんでくる過去の情景が、彼女を責め苛む。嗚咽はもう喉まで出かかっている。それに耐えようとして、彼女は母がいつか見せた、いつも見ていた微笑みを思い出す。目が熱くなる。悲しみが唇を破ろうとする。鼻が詰まる。息が苦しくなり、口を開きたくなる。だが泣いてしまうから、できない。何とか呼吸をしようとするが、苦しい。鼻をすする音も、時折漏れてしまう小さくしゃくる声も、この激しい爆音の中にあっては聞こえない。鼓膜がおかしくなる。耳が痛い。身体が痛い。
拷問の無限回廊とも思える責め苦に精神を嬲られながら、ただただ彼女は必死に耐え続けた。
ようやく嵐の勢いも弱まった頃には、彼女の身体感覚は完全に麻痺していた。
冷やされ、打擲され、固く結び続けていた両手はもはや自由が利かない。身を強張らせ、姿勢はそこに腰を下ろした時からずっと同じ。
名残のように吹く風の音が、薄ら寒く響いていた。先程の豪雨とはとても結びつかない静謐な世界だった。
ピチャ……ピチャ……
規則的に思えて、僅かにズレのある雨垂れがこだまする。
ぬかるんだ時間が、ゆったりと流れていく。厚い雲に覆われた灰色の曇天がそれを助長していた。
コツ……コツ……
彼女の短い髪からも、雫が落ちていく。それが屋根の瓦を叩き、無機質の音を立てる。
彼女に見られる動きは、その程度だった。そう誂えられた彫像のように微動だにしない。微かに聞こえる呼吸の音だけが、彼女の生を肯定していた。
「――――」
雨が止んでから何時間が経っただろうか。吹き荒む冷たい風に乗って、何か異音が聞こえてきた。
「――――」
それは遠い、遠い所から。角笛を思い切り吹き鳴らしているかのような、粗い音が、運ばれてきた。
「――――」
彼女は動かない。
「―――――い――」
音が、少しだけ鮮明になる。そして、その音は笛などではなく、どうやら人の、男性の叫ぶ声のようだった。
「お――――か――――」
本当に断片的な音節だけが、かろうじて聞き取れる。誰が、何を言っているのかは、この距離では全く分からない。
眠っていたかのように静かだった彼女が、ゆっくりと顔を上げた。固く閉ざしていた目を少しずつ開け、紫色の唇を開いてから少しだけ息を吐く。凍らされてしまったかのように、ぎこちない首の動き。蒼白い頬を濡らしたのは雨か、堪え切れなかった涙か。
受け入れまいと、見まいとしてきた世界を前に、首をゆっくりと巡らせる。
「誰―――居――か―――」
男の声は、ひどく遠い。姿など視認できそうもないほど、遠い。だが、荒廃した世界だからこそ、それはよく響いた。
「誰か――――居――か――」
彼女は、どこともつかない虚空で視線を止めた。その異端の音が、人の肉声であることをはっきりと認識したのだ。
「――――――ろ――」
何を言っているか、を受け取ろうとする意志はなかった。ただ、その声が、自分と共にあること。その人が、彼女を打ちのめしたこの世界のどこかに居ること。
その事実を心に刻み込む作業に、彼女は没頭しているのだ。
「お――――か――――」
そして一際大きいその声が聞こえた時、彼女の唇の端が少しだけ上がった。
小さく、笑った。
血の通わない顔色にはとても似合わない、あどけない表情だった。
そして少しだけ唇を開き、大きく息を吐く。
それをやり終えると、また膝の中に頭を埋めた。
やがて瓦を叩きつけるような鈍い音が、ドサ、ドサ、と何度か続いた。
少しの間が空いて、激しい水音が立ち、舞い上がった飛沫が水面に着く音がパラパラと遅れて聞こえた。
濁った水面に幾重もの波紋が生まれ、そして消えていった。
「誰―――居――か―――」
その景観からは彼女だけが消え、声は、この死の世界に抗うように響き続けていた。